田中博ノート

探偵小説研究会の田中です。雑誌等に書きっ放しになっている文章や、手元にある未発表の文章を掲載しています。

2012-03-16吉本隆明が死んだ……

 吉本隆明が死んだ……

2007-09-16 モダンとポストモダン――批評の問題《番外編・3》

まだ続きます……

だから――モダンは、自己批判回路を備えていたわけで、そんな“反・近代的”身振りも含めて“モダン”なのだとすれば……卑しくも“ポストモダン”などというからには、近代批判みたいなものに汲々としていてはいかんのじゃないか? 少なくとも、モダンを「相対化した」とか、「切断した」なんていうことを売り物にして油断していると、モダンの裏に張り付いていたグチャグチャしたものから、思わぬ反撃をくらったりするのじゃないか? モダンの裏として可視化されてきた微妙な諸々を“済んでしまったこと”みたいに扱うのはモッタイナイ。モダンを疎かにしちゃイケマセン……と、いうのが「モダンが大好き」とか「モダンを恐れない」ということなのだ。

前々回に引用した文章に「近代は、前近代もポスト・モダンも内包しつつ引き裂かれている。引き裂かれつつ、それらを回収し内包している。」というフレーズがあって、それは“モダニスト”としての言い草だったわけだが、これを“ポストモダニスト”に転向した立場から言い直せば「ポストモダンはモダンを内包している」ということになる。

切断とか、相対化じゃなくってさ……モダンの裏側なんかが表に出てきちゃったんだから……それは、もう“裏”じゃないんだから謙虚に考え直しましょう――みたいなことがあってもいいだろう。そんな状況が“ポストモダン”なんじゃなかろうか?

そっちの方が気が楽だよなぁ……というのが、多分、今回の「ポストモダニスト宣言」の正体なのだ。モダニストにしてみれば、なにがしかに“内包”されるなんて気持ち悪いのだが……まぁ、今までだって“裏”とか“外”とか言い訳してきたわけだけど……それでも、まだ“中心”にはいたつもりだったけれど(つまり、居直ってブチブチ言ってきたけれど)……状況も変わってきて「なんか片隅に追いやられちゃったよねぇ」と――そこらへん、スッパリ諦めをつけちゃえ――片隅からでもいいじゃねか、なにせポストモダンなんだから(つまり、開き直っちゃえ)みたいなことなのだ。

まさに、コペルニクス的転回!? コペルニクス以前の天文学でも、ウザッタイ計算を積み上げれば、とりあえず星々の運動はキチンと説明できたわけだ。でも「地球が中心じゃないよ」という前提に立つと、もっとスッキリ星々の運動を説明できるじゃんか! というのが、コペルニクス的転回。「コペルニクス的転回って、ゴリゴリのモダンなんじゃないの?」「アインシュタインはどうなのよ?」みたいなツッコミもあるだろうけど……まぁ、それは“比喩”として使ってるだけだから……なにせ、そんな状況が“ポストモダン”なんじゃなかろうか?

話を強引に「小説」の話に戻すけれど、例えば、「自然主義」だの「リアリズム」なんていうのは、誕生と同時にモダンな自己批判回路に回収され、屈折した自意識の中で、さんざんイジメつけられてきたわけだ。そして……まだ、イジメられている。つまり、イジメつけられるために生き延びてきたようなところもあるのだけれども……そろそろ、「自然主義」だの「リアリズム」をイジメても面白くないよねぇ――というか、そんな状況が“ポストモダン”なんじゃなかろうか?

前々回に「志賀直哉が書いた変テコな小説の方が、佐藤友哉より尖鋭的だろう」というフレーズを“モダン”の立場を装って書いたけれども、この二人を並べたのは、全くの無作為というわけではなく――ひょっとしたら、佐藤友哉の愛読者は、案外と志賀直哉なんか面白がるんじゃないないのかなぁ……みたいな感じがあったからなのだ。「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた」と、「檸檬」の冒頭に記した梶井基次郎などを間に挟んでもいいけれど……なんか、どうしようもなく“不機嫌”“景気悪い”みたいな気分は、共通するところがあるのじゃないか? もちろん、それぞれの“不機嫌”や“景気の悪さ”の正体は、「父との関係」とか「病気とデカダン」とか「現代の若者の憂鬱」とか――色々と詮索すれば、それぞれ色合いは違うだろうし、差異はいくらでも摘出できるだろうが……そういう詮索(分析的系譜付け)は無視して、「ともかく、どうしようもなく不機嫌で、なんか景気悪いよねぇ」みたいな所で短絡させてもOKなのじゃないか? そんな状況が“ポストモダン”なんじゃなかろうか?

そんな表層的で短絡的な思考は軽薄だ……「戦後派」だの「第三の新人」だの「内向の世代」だの「村上春樹的切断」だのをスッ飛ばして、日本近代文学史を無視している……とか、ポストモダンな小説はモダンと切断されているのだから比較にならない……とか、色々と反論はあるだろう。しかし――そういう、ウザッタイ議論なんか迂回してもいいのじゃないか? そんな状況が“ポストモダン”なんじゃなかろうか?

それじゃ批評にならない? そうなんだよなぁ……

でも、それを批評にしなきゃ“批評”の未来なんてないだろう。いや……実は、批評に未来なんてないような気もするのだが……「じゃぁ、批評やめます」というものでもあるまい。未来なんかなくても生きていける――と、いうか……ダラダラ生きていかなきゃならんでしょう? なんなら、淡々と粛々と「小説における一人称の変遷」みたいに、素知らぬ振りして志賀直哉と佐藤友哉の連続性を強調してみても“それらしいこと”を言えるのじゃないのか? あるいは、そうした諸々を、何故それらが「小説」の形をとってしまうのか? 異種メディアとの関係は? みたいな問題設定も「表象に関する一般理論」からは有効なんじゃないだろうか? モダンとかポストモダンにあんまり拘らないでさ……

などと書いているうちに……結局、俺の考えていること(思い付き・言いたいこと)は、あんまり以前と変わってないような気がしてきた。そもそも、モダニスト時代(?)に書いたものも、見方を変えればポストモダン風の要素が多い。例えば、いわゆる“新本格”登場以降の探偵小説シーンを「決算後の風景」なんていう風に表現していたわけで、こんなのは字面だけみれば(背景にあるモダンな理論に目をつぶれば)、まさにポストモダン風だ。“純小説的叙述”なるものを近代小説のスタンダードとして考えてはいたけれど、実は、そこからの逸脱みたいなところを注視していた――というか、そうした偏差に注目することでこそ“スタンダード”が浮かび上がったりしたわけだ。まぁ……浮かび上がった“スタンダード”に頼ってしまったのは「モダニストだったから」ということで、それは反省するのだけれど……見方を変えれば――俺って、実は、昔からポストモダニストじゃん! ということで――でOK?

OKじゃないよなぁ……

そろそろ、探偵小説とかジャンルの話に戻って、締めくくりをつけないと――

帰り道は……えぇと……

2007-09-01 モダンとポストモダン――批評の問題《番外編・2》

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 前回の続きです。

「モダンを恐れないポストモダニストを目指そうと考えている」と、書いたけれども、それは以前の私が「ポストモダンを恐れるモダニスト」だったからで……

つまり、前回引用した文章からも分かるとおり、ポストモダン臭い言説に対して妙に敏感に反応して、そうした思考・志向・嗜好を無化することに、なんだか一所懸命だったわけで……それは、やはり、ポストモダン的な相対主義(いや、ポストモダニズムが単なる相対主義だと言いたいわけじゃないけれど)に対して、そんなことじゃ批評的なパースペクティブは維持できない……みたいな“恐れ”があったからだと考える。

だから、ポストモダニストになったからといって、逆にモダンを恐れて、それに対する相対化とか切断に汲々としていると――以前、自分が批判していたような、「ソフトモダニズム」というか「ネオモダニズム」みたいなこと――「マルクス主義」とか「近代の超克」とか「カウンターカルチャー」とか……結局、従来の“モダンな近代批判”みたいなものの繰り返しになっちゃうのは目に見えている。いや……別に、なっちゃってもいいんだけどさ……ウマイことさえ言えれば。

いいんだけど……例えば、メタフィクションとか、メタレベルとオブジェクトレベルの交錯とか、そういう“相対化”路線・切り口でポストモダンを論じるようでは、どうしてもウマクいかないような気がする。あんまり利口ぶると、ピントがズレるのじゃないか? 一度、バカにならないといけないような気がする……

そもそも、モダンが……と、いうよりモダンな考え方・言説が機能しなくなりつつあるのは、表向きのこと――と、いうか……モダンが(モダンな言説)が機能していた(ように見えていた)頃でも、現実はグチャグチャだったわけで、処理できない様々な事象がモダンの(モダンな言説の)底では犇いていたわけで――それが、メディア・テクノロジーの発展に伴い、取り繕えなくなってきた――と、いうこと(そこらへんは、「CRITICA」2号の拙稿を参照してください)なのだから……

例えば“近代国民国家”というゴリゴリのモダンなイデオロギー(って、この言葉も、実にモダン臭いけれど)に纏わる言説は、今までだって全ての現実を回収・配当しきれていたわけではなく――また、現在、それが全く機能しなくなったわけでもない(依然として、色々なことに対する回収・配当回路を維持している)。

さらに、例えば――小説の話で言えば、“自然主義的リアリズム”という看板(?)で過去の蓄積をモダンに括って、加齢臭を漂わせているから「ハイ、それまでヨ」――みたいな、そんな単純なことにはならないでしょう? あんまり、リニアに“モダン”の次は“ポストモダン”です――ってわけにはいかないでしょう?

つまり、モダンの看板の裏には色々とグチャグチャしたものが貼りついていたし……そして、それは、それなりに可視化されてきたとも思う。それを、看板と一緒に……盥の産湯と一緒に赤ん坊を捨てるみたいに……お払い箱にしちまうのは無茶で……

ぶっちゃけた話で、「モダン/ポストモダン」という対立より、「言説/現実」という対立の方がラディカルなはず――と、いうか……基本的に、私は後者にプライオリティを置きたい。

もちろん、ここらへんは実に微妙で……「モダン/ポストモダン」という対立は、“言説”の問題ではなく“現実”の問題である――とか……“言説”も“現実”の一部だし、むしろ“現実”なんてのは“言説”において可視化されるのだ――みたいな議論もあるだろうし――それは、それで、ある程度のところ納得するのだが……

そう……批評にとって、例えば“小説”は、問題とすべき“現実”の一部のように扱われたりすることもあるけれども、そもそも“小説”自体が“言説”の一種であったりするわけだ。ここらへん、微妙だよねぇ。言い換えると、小説を(まぁ、それが言説の一種であっても)現実として扱うか、それを言説として扱って“その向こう”に現実を透かし見るのか……ここらへん、微妙だよねぇ。「言説/現実」にプライオリティを置く以上、私の立場は基本的に後者になるわけだし、そうなると“リアリズム”みたいな問題が、どうしても浮上してくる。

こういう“微妙”なところをウロウロしていると、「モダン/ポストモダン」という区分が(少なくとも言説上の区分)が意味ないじゃん……ってことにもなるのだが(それが、以前のモダニスト田中の立場だったのだが)、現状の変化は、そんな風に居直ることじゃ遣り過ごせない――という不安に苛まれて……開き直ってポストモダニズム宣言をしちゃったのだが……ただし、「モダンが大好き」とか「モダンを恐れない」とか言い訳しているわけで……

“居直り”“開き直り”は、どう違うのよ?――と、いう疑問も当然あるし……実際、同じかもしれないけど……でも、チョットだけニュアンスがちがうでしょ? 微妙なんだけど……

解りにくいよなぁ……そこらへん、またフォロウして考えてみたいと思います。なんか、同じことの繰り返しというか――とめどなく“だらしなく”酔っ払いの繰言みたいになりつつあるけど……千鳥足でも一歩ずつ……


うぅむ……なかなか探偵小説の話に戻って来れないけれど……“メタフィクション”とか、それから、えぇと……“リアリズム”とか……なんだか、手持ちのパンが小さくなってきているけど……まだ、パン屑を置いていっているつもりです。

2007-08-21 モダンとポストモダン――批評の問題《番外編》

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さて……ポストモダニスト宣言などしてしまったわけだが、モダンとポストモダンの関係について、少し考えてみたい。「CRITICA」2号の原稿では、そこらへんを曖昧にしたままであったし……

とはいえ、実は、まだ曖昧なのだ。というか……この問題は“曖昧”にならざるを得ず、スッキリ決着がつくようなものではないような気がする。少し“だらしない”雑文口調で――その曖昧なところを曖昧のままに話を進めてみよう。

そもそも、批評めいた文章ってのは「モダン」臭い。そうした道具でポストモダンをいじっていると、「ポストモダンもモダンの一種じゃないの?」とか……「モダンの成れの果てがポストモダンなのかもしれない」とか……そんな気がしてくる。

かつて、モダニストだった頃の私は、次のようなことを書いている。

言い換えると、クラカウアーの時代に開始されたような「近代批判」は、ヘーゲルの時代に埋め込まれた「近代意識」を“折り返し”“裏返し”たものであるし、ポスト・モダニズムも――少なくとも、言説上の振る舞いにおいては、「近代批判」「近代意識」のバリエーションなのだ。

 週刊書評 第237回 『探偵小説の哲学』/批評の問題(3)

近代は、前近代もポスト・モダンも内包しつつ引き裂かれている。引き裂かれつつ、それらを回収し内包している。近代という切断的な歴史意識こそが(その実質は何であれ)前近代なるものを析出するのだし、したがって、ポスト・モダニズムという一種切断的な歴史意識も(その実質が何であれ)近代主義=モダニズムの範疇に含まれるわけだ。

 笠井潔『物語のウロボロス』(ちくま文庫)の解説

つまり、近代を“相対化”したり、近代を“切断”するような歴史意識は……とっても近代的で、それがポストモダンと言えるのか? そうしたことは、すでにモダンの中に折込み済みなんじゃないの? ということだった。モダニストの立場からは、こうした整理の仕方で充分――だったわけだ。ある意味で、こうしたイチャモンは今でも有効だろう。「時代はポストモダンだぜぃ!」みたいな、お手軽言説の中には「それって、今までさんざん言われてきたことの繰り返しじゃんか……」といった感想を持ってしまうモノもある。

あるいは、

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

などで、真摯に思考を展開している東浩紀の文章にしても、妙に切断意識みたいのが表面に出ていて、「えっ? 近代文学って全部“自然主義的リアリズム”で整理できちゃうの?」みたいな戸惑いを覚える。

で……近代文学大好き中年男の心の底では「ダダイストやジョイスが見せてくれた20世紀モダニズムの始末を、どうつけてくれるんだ?」とか、「志賀直哉が書いた変テコな小説の方が、佐藤友哉より尖鋭的だろう」とか「どう贔屓目に見ても、舞城王太郎が古井由吉より小説言語に関するスキルが高級ってことにはならねぇだろう」とか、モダンな“イチャモン”がフツフツと沸き上がったりもするのだが……もう、そんなこと言って脂下がっている場合じゃないような気がして……

だから、例えば、東の振る舞いの問題は、やっぱり、批評的な言説が時代・状況の変化を掬い上げる時にとってしまう必然的な問題……というか、批評の自意識みたいな(モダンな)問題なのであって、そこらへんで煩悶しているうちに、外側の事態はどんどん批評的なものを置き去りにしていってしまうだろう。で……不安になって、とりあえず、ポストモダニスト宣言をしてしまったわけだが……

ポストモダニスト宣言はしてみたものの……それを、どう「批評」に反映させるのか? これが、厄介なんだよなぁ……なにせ、くどいけど、批評っていうのはモダン臭いし……

基本的には、モダンを恐れないポストモダニストを目指そうと考えている――って、解りにくいよなぁ……そこらへん、またフォロウして考えてみたいと思います。 

うぅむ……なかなか探偵小説の話に戻って来れないけれど……批評の自意識を経由して、ジャンルの自意識みたいなものに帰る細い道に、パン屑を置いていっているつもりです。

2007-07-23 ポスト・モダン――

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と……いうわけで――懸案の「CRITICA」2号用の原稿を書き上げたわけだが、それが……なんとも……

まぁ……布石を打っただけの、ちょっと情けない仕上がりで……

この「田中博ノート」でフォロウしていこうと考えてはいるのだが……しかし、本文が出る前に言い訳するのもなんだし(と、言うこと自体が言い訳めいているけれども)、本格的なフォロウは、8月17日の夏のコミケで「CRITICA」がお披露目されてからにするとして、変テコな前宣伝みたいなことをしてみよう。

原稿のゲラ直しの段階で、煮え切らない自身のスタンスについて、もう少し鮮明に解りやすく表現すべきだろうな……と、煩悶した挙句、苦し紛れに次のようなフレーズを突っ込んだ。


どうやら、私は――ポスト・モダンが大嫌いなモダニストから、モダンが大好きなポスト・モダニストに転向してしまったようだ……


この言い草自体が、モダニズム臭紛々なのは自覚しているが、まぁ、それは転向(というモダンな)儀式として必要なものだったのだ。

で……今更な、この「ポスト・モダン」という呪文を、昨日の探偵小説研究会の例会の後の酒宴で連発してみたのだが……ただの酔っ払いの戯言のように扱われ、「いつもより面白くない」と切り捨てられ……これでは、いかん――と、あえて「ポスト・モダン」に固執するという、実に「モダン」なパフォーマティブな振る舞いに追いやられてしまい、かろうじて「田中さんの新しいギャグ」みたいな所で受け入れてもらえたような気もするのだが……

ようするに、ちょと――失敗したみたいだ。

でも、挫けたりしない。卑しくも「ポスト・モダニスト」宣言をしたからには、「挫ける」とか「屈折」とか「自意識」とか「弁証法」とか「相対化」とか……そんなのは、“モダニスト”振りという一つのコンテンツというか、芸風でしかないわけだから――私は、そういう芸風を愛する自分を棚に上げて慈しむ余裕を持った「ポスト・モダニスト」になってしまったのだから――

いや……こんなことをウダウダ書いている時点で「モダン」なのは承知している。でも、時間をかけて、段階を踏んで、僕は立派なポスト・モダニストになる……そういう、決意が「モダン」だとしても…… こんなことをアップするのが酔っ払いの勢いだとしても……それがモダンかポスト・モダンかは……どっちでもいいのじゃないだろうか?