田中博ノート

探偵小説研究会の田中です。雑誌等に書きっ放しになっている文章や、手元にある未発表の文章を掲載しています。

2006-11-01『大菩薩峠』と「反省」

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今日、仕事の帰りに本屋へ寄ったら――『ザ・大菩薩峠』を見つけた。

ザ・大菩薩峠―『大菩薩峠』全編全一冊

ザ・大菩薩峠―『大菩薩峠』全編全一冊

帯には「『大菩薩峠』全41巻1,533章570万字遂に全一冊化なる!! 文庫本20冊分がコンパクトな1冊になって6冊分で買えます」とある。スバラシイ! 迷わずレジへ持って行った。

奥付をみると、2004年の9月10日発行――もう、2年も前に出ている。う……うかつだった。全然、知らなかった。『大菩薩峠』ファンのくせに、これは恥ずべきことだ。実は……私は、『これだけは知っておきたい名作時代小説 100』(2004/9/23・フィールドワイ)というガイドブックで、『大菩薩峠』の項を担当していたりもする。

この原稿を書いたときに「最新版は何かな」と、一応あたったはずだが……記録を調べると、原稿を送付したのは2004年8月13日――タッチの差だったわけだ。まぁ、この『ザ・大菩薩峠』(1冊本)は、文字は小さいし、ルビは( )の中に入れられて本文と同じラインにぶら下がっているし、読みにくいこと甚だしく、解説も書誌データも何もない代物だから、他人に「これで読め」とは言いにくい。やっぱり、最初に読むなら、20冊あっても(お金がかかっても)、ちくま文庫版をお勧めしたいので、知っていても『ザ・大菩薩峠』を最新版として紹介しなかったろうけど……


しかし……あの『大菩薩峠』が1冊になっているというのは、やっぱり魅力だ。電話帳サイズで「コンパクト」と言えるかどうか微妙だが……枕元に置いておけば、いつでも好きなところを開けるわけだし……あの熱い、暑苦しい言葉の群が塊となってこの1冊に凝縮されていると考えるだけで、何かジーンとくる。手にしているだけで……手の中にスバラシイものを所有しているのだ……と、心が温かく優しくなる……


私が『大菩薩峠』を読んだのは大学生の頃。当時刊行中だった富士見時代小説文庫版で読み耽った。学生時代で時間に余裕があったことも幸いして一気読みした。面白かった。それだけでなく、色々と“小説”というものについて考えさせられた。この小説があるということで、日本近代文学は揺るぎない価値を確保できる――と、興奮した。で……何の因果か、運命の女神の導きか、翌年に大学の国文専攻のゼミで『大菩薩峠』が取り上げられ、私は心理学専攻だったにもかかわらず、そのゼミに乱入したのであった。

で……そのゼミのレジュメに書いた「作者-話者-読者」の関係に関する考察が……例の「純小説的叙述」を中心とした私の“文芸理論”の基となっている。もちろん、エラリー・クイーン・ファンクラブの機関誌「Queendom」にクイーン論を書いていたし、探偵小説についても色々思いを巡らせてもいたし、当時の読書データベースに占める探偵小説濃度は濃かったけれど、「純小説的叙述」云々は、実は、そっちの文脈から出てきたわけではないのだ。具体的サンプルが『大菩薩峠』で……理論的な背景は『言語にとって美とはなにか』(吉本隆明)だけが手がかりだった。

定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)

定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)

その後、ニューアカだのバフチンだの前田愛だのベンヤミンだのバルトだの……そんなのと色々と考え合わせて、「純小説的叙述」なるものをヒネリ出したわけだが、その第一歩は中里介山と吉本隆明だったわけだ。


で……何が言いたいかというと……例の「反省」の問題である。前回の(10月23日付けの)文章で……

具体的に言えば、ジャンルヒエラルキーを遠くから眺め――「純小説的叙述」なるものを中心から周縁に置き直し――「リアリズム」の(あるいは“リアル”の)根拠を問い直し――「小説の一般理論」という“底”を「表象の一般理論」にまで開き――特にテクノロジー問題を中心に、ジャンル教養的なものとは違う「歴史性」において考えてみたい……ということだ。

と、書いたが……そうした理論の見直しについて、そもそもの始まりであった『大菩薩峠』に一役かってもらおうと考えている。ミステリ・ジャンルとは一見無縁だが、そこまで退いてから考え直さないといかんよなぁ……ということなのです。

さらに具体的には……そのうちにね……