田中博ノート

探偵小説研究会の田中です。雑誌等に書きっ放しになっている文章や、手元にある未発表の文章を掲載しています。

2006-11-11日常と反省

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昨日の金曜日は、「2007 本格ミステリ・ベスト10」(原書房)の作品レビューの締め切りなのであった。私も、少しだけ書いたのだが……この原稿って、一応、これがランク・インしたら誰が書く――と、事前に打ち合わせて割り振りはしているのだが、実際に順位が決定してみると、一人の人にレビューが集中しちゃったりするわけで、バタバタと調整したりなんかして、けっこうタイトなスケジュールになってくる。私も、準備はしていたものの……昨日はビールを3リットルほど嚥下しつつ、頑張りました。

しかし……この“飲まなきゃ書けない病”はなんとかせんとなぁ……歳とってきて、身体がもたなくなってきている――アルコール・エンジンの燃費も悪くなって……まぁ、書く・書かないにかかわらず、日常的に飲んでいるわけで、根本的には“飲まなきゃ生きていけない病”なのだが……

さて、私が、どの作品について書いたかは……もちろん秘密。今回の「本ミス」は、過去十年を振り返る企画とか、いつものレギュラー・コンテンツ以外にも色々と趣向をこらしているので、楽しみにしていてください(宣伝モード)。

明日の日曜日(11月12日)は、文学フリマの日。探偵小説研究会も参加して、夏のコミケに続いて、「CRITICA」創刊号の販売を行います。当日の責任担当者は、蔓葉信博。円堂都司昭も出かけるらしい。他には、誰が行くんだろう? 俺はどうしようかな……お天気次第だな。夏のコミケに行きそびれ、通販もめんどくさいし……という人は、秋葉原へ来てください(宣伝モード)。


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この前に書いた「ジャンルと歴史と教養」の補足です。

やっぱり、言訳がましいので、私に興味がある人以外は読まなくていいです。

 

二階堂黎人の他にも、『容疑者Xの献身』を端緒とした議論において“名指し”で私に言及した論者が二人いる。蔓葉信博と笠井潔である。この二人とは、探偵小説研究会の場で色々と意見交換をしており、あらためて本人に“対応”する必要はないのだが――ひょっとして、気にしている人がいるかもしれないし(いないとしても)、二人の言及に対する私の態度が例の“反省”にも絡んでくるので、「ジャンルと歴史と教養」の補足として、少し述べてみたい。

蔓葉は、「ミステリマガジン」2006年10月号の「現代本格の行方」のコーナーに「刻印開示」という文章を書いている。笠井が展開する議論の理論的な質を問う過程で、私を引き合いに出している。

 私見では「大量生=大量死」理論に拮抗しえたかもしれないのは、田中博が小説誌「EQ」および、e-NOVELSで展開していた「シジフォスに明日はまた来る」ぐらいではなかろうか。現在、過度な発言をひかえている田中博が、もし当時のような旺盛な発言力を取り戻したらどのような展開を見せていただろう。この夢想は、それらの理論が互いに反論しあっていることを指摘したいのではない。それらを照らし合わすことにより、同一性と差異性がはっきりし、どちらにより説得力が見いだせるのかをぼんやりと想起させる。

沈黙は金――というか、黙っていたせいで、二階堂も蔓葉も、私を褒めてくれているようだ(ずっと、黙ってればよかったかな……)。ただ、前回に述べたように、黙っていたのには、それなりの理由があるわけで、それは笠井理論に係わってくる問題なのである。

ここでいう“笠井理論”とは、直接的に「大量生=大量死」理論というわけではない。「大量生=大量死」理論については、そのインパクトを認めつつも、それに対する違和感や自分なりの読み替えを、機会あるごとに表明してきたつもりだ。「シジフォスに明日はまた来る」にも、そうした距離感は書かれている(だからこそ、蔓葉も言及したのだと思う)。

ただ、その批判的スタンスは、要するに、文芸理論に基づいていた。前回に反省したような、ジャンル・ヒエラルキーに基づく理論……一種の“小説中心主義”みたいな……様々な問題も、それを“小説”の問題に還元してしまえば、それなりに有効な論が立つ――小説の自律的メカニズムの問題に翻訳できる……という前提に基づいていたわけだ。

もちろん、自律的メカニズムといったところで、それが限定的なものであることくらいは承知していた。この世のものは、全て“自身ではないもの”との関係で自身を形作っている。何事かが起ち上がるには、なにがしかの条件があり、どれほど“自律的”にみえようと、それは様々な外的状況に条件付けられている。私の文芸理論が用意していた“外的状況”は、言葉の流通過程というものであり、今までの仕事でスポットを当てたのは、19世紀後半に爆発的に発達したジャーナリズム、それと相補的なリテラシー教育の普及――その結果としての大衆社会で遣り取りされる“言葉の姿”というものだった。

それが“小説”のふるさとであり、そこから先は……現代まで一本道、様々な“小説”的問題は、そこまで遡って考えれば、クリアできる――なんだかんだ言ったって「小説」だろ? フローベールだろうが、ポオだろうが、中里介山だろうが、村上春樹だろうが、赤川次郎だろうが、“新本格”だろうが、舞城王太郎だろうがブッタ斬れる(すべて、関連付けて布置可能である)――その理論は、それこそ(ちょと語義矛盾的だが)自律的な弁証法的システムとして“小説”を捉えることで、(少なくとも)近代的歴史性を確保している――と考えていた(それが自惚れだとしても)。

そんな大雑把なフォルマリスト的欲望を持つ私にとって、笠井のように19世紀/20世紀/21世紀という屈折を発掘し、律儀に社会状況と小説を対応させていく方法は……ジャンル外的な条件問題に意識的な点で多くの共感があるにしても(だから、今回の挑発も、それなりに身に応えたわけだが)、私のスタイルとはズレる――というか、蔓葉の言葉を借りれば、やはり、ちょっと「議論の理論的質」に違いがあったのだと思う。まぁ……元気であれば、自身の“小説中心主義的理論”を引っさげて論争に参加していたかもしれない。蔓葉が“夢想”したような事態になったかもしれない(結果は、面白くもない議論のスレ違いにしかならなかったと思うが)。

まぁ……あんまり元気じゃなかったということだ。前回の「反省」で書いたように、振りかざしてきた理論なるものが疑わしくなってきていた。さっき「フローベールだろうが、ポオだろうが、中里介山だろうが、村上春樹だろうが、赤川次郎だろうが、“新本格”だろうが、舞城王太郎だろうがブッタ斬れる」と書いたが、実は、舞城については何か手応えがなかった。空振りしてるんじゃないかな……と。e-NOVELSの週刊書評で三回も舞城を取り上げたが、どうもシックリこない。

ただ、それを“言説空間の変容”という状況のせいにして、自身の理論については、そのまま温存していた。いきおい、例の“小説の自律的メカニズム”という図式の中で作品をいじくり回すルーチンワークで誤魔化すことになる。そこらへん「誤魔化してるなぁ」という自覚はあって、それが「“現場”にいない……」という感覚になっていたわけだ。


で……笠井による田中評価の話に移ろう。「CRITICA」創刊号に収められた「第三の波の帰趨――ジャンルを取り巻く『言説』の配置」という諸岡卓真と小森健太朗との対談で、『容疑者Xの献身』の評価問題について、笠井は、こう発言している。

 なにも新しいものはないが、既成本格コードの組み合わせの妙に着目して、この作品を高く評価する立場がある。評論家でいえば鷹城宏や円堂都司昭や田中博ですね。こうした立場は、「端正な本格」と共通するところもあるでしょう。

また、「ミステリマガジン」2006年12月号の「現代本格の行方」のコーナーの「ベルトコンベアは停止した――コメンテイトとクリティックの差異」という文章で、笠井は――

 20世紀精神の一形態である探偵小説を論じる者が、不可避なものとして到来した21世紀的な環境性に無自覚なまま、『容疑者Xの献身』を「後発者の技術(スキル)」云々の文学主義的な観点から絶賛してしまう無自覚性こそが、根本的に批判されなければならない。佳多山大地だけでなく、濤岡寿子、円堂都司昭、鷹城宏、大森滋樹などの評論家も『容疑者Xの献身』を本格ミステリ大賞に推している。いずれも「古典的形式をクリエイティブに再構築する後発者の技術(スキル)」を評価する点で、佳多山と立場を共有しているようだ。田中博や千街晶之も同様の観点から、この作品に相対的に高い評価を与えている。

と、書いている。

確かに、私は、笠井が言うような観点から『容疑者Xの献身』を高く評価した。「本格ミステリ・ベスト10」でも、本格ミステリ大賞でも投票を棄権したが、『容疑者Xの献身』については「面白い」「良い作品だ」と公言していた。そして“ある意味で”そうした評価は間違っていない――と、今でも思っている。

ただ、そうした私の『容疑者Xの献身』評価が、前述したような「“小説の自律的メカニズム”という図式の中で作品をいじくり回すルーチンワーク」でしかないことも、また確かであり、その点では笠井の批判を甘んじて受け入れる。笠井の言い方からすれば、ベルトコンベアで流れてくる卵の選別作業にすぎない……ということだ。

繰り返すが「“ある意味で”そうした評価は間違っていない」――選別作業のどこが悪い? 21世紀精神なんて知ったことか! という開き直りも、それなりの正当性を持つ。本格ミステリというジャンルを中心に考える限り、歴史・教養主義的に、それは避けられない一つの立場なのだ。


で……役割分担みたいな俗な話になる。自身を省みて、基本的に「ジャンルの歴史・教養主義」を担う立場じゃねぇよなぁ……と思っている。この業界には、マニアというか、それこそ“鬼”のような“ミステリ読み”がいて、彼らが蓄積しているジャンルに関する知識・教養は、到底、半端者の私の及ぶ所ではない。「歴史・教養主義的」路線は、そうした適任者たちにまかせよう。そこには生産的なものがあるはずだ。ジャンルヒエラルキーの秩序の混乱はジャンルの崩壊とイコールではないし、歴史・教養が担う役割の変容はそれらの無価値に帰結するわけではないし、そこからジャンル外の様々な事象へアプローチすることだって可能なはずだ。

で……おいらは、どうするのよ? ということだが、半端者は半端者らしく、この前も書いたように、初心に返ってジャンルの外に片足置き、そっちに重心をかけていこうと考えている。そうした係わり方も、ジャンルにとって無駄ではあるまい。

ここで、問題なのは、以前ならジャンルヒエラルキーに従順な理論が背景にあったおかげで、「本格」のことをやっていれば(ルーチンワークであっても)それは、必然的にリニアに、ジャンル外の問題に通じているという安心感があったわけだが、自分の中で、そんな保証がなくなっちまったわけで――そうなると、『大菩薩峠』の話から本格ミステリに戻る道は保証されていない――もちろん、むしろ短絡的な思考・志向は活性化されて“楽”になるかもしれないが、こればっかりは、やってみないと分からない。トンチンカンなことになるかもしれない……。ただ、やはり、スタイルとしては、迂遠なフォルマリスト的な考察になるはずだ。笠井の述べる21世紀精神なるものにダイレクトに繋がることはあるまい。まぁ、お似合いのことを、やれるだけやる――ということで、反省房に戻ります。