田中博ノート

探偵小説研究会の田中です。雑誌等に書きっ放しになっている文章や、手元にある未発表の文章を掲載しています。

2007-08-21 モダンとポストモダン――批評の問題《番外編》

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さて……ポストモダニスト宣言などしてしまったわけだが、モダンとポストモダンの関係について、少し考えてみたい。「CRITICA」2号の原稿では、そこらへんを曖昧にしたままであったし……

とはいえ、実は、まだ曖昧なのだ。というか……この問題は“曖昧”にならざるを得ず、スッキリ決着がつくようなものではないような気がする。少し“だらしない”雑文口調で――その曖昧なところを曖昧のままに話を進めてみよう。

そもそも、批評めいた文章ってのは「モダン」臭い。そうした道具でポストモダンをいじっていると、「ポストモダンもモダンの一種じゃないの?」とか……「モダンの成れの果てがポストモダンなのかもしれない」とか……そんな気がしてくる。

かつて、モダニストだった頃の私は、次のようなことを書いている。

言い換えると、クラカウアーの時代に開始されたような「近代批判」は、ヘーゲルの時代に埋め込まれた「近代意識」を“折り返し”“裏返し”たものであるし、ポスト・モダニズムも――少なくとも、言説上の振る舞いにおいては、「近代批判」「近代意識」のバリエーションなのだ。

 週刊書評 第237回 『探偵小説の哲学』/批評の問題(3)

近代は、前近代もポスト・モダンも内包しつつ引き裂かれている。引き裂かれつつ、それらを回収し内包している。近代という切断的な歴史意識こそが(その実質は何であれ)前近代なるものを析出するのだし、したがって、ポスト・モダニズムという一種切断的な歴史意識も(その実質が何であれ)近代主義=モダニズムの範疇に含まれるわけだ。

 笠井潔『物語のウロボロス』(ちくま文庫)の解説

つまり、近代を“相対化”したり、近代を“切断”するような歴史意識は……とっても近代的で、それがポストモダンと言えるのか? そうしたことは、すでにモダンの中に折込み済みなんじゃないの? ということだった。モダニストの立場からは、こうした整理の仕方で充分――だったわけだ。ある意味で、こうしたイチャモンは今でも有効だろう。「時代はポストモダンだぜぃ!」みたいな、お手軽言説の中には「それって、今までさんざん言われてきたことの繰り返しじゃんか……」といった感想を持ってしまうモノもある。

あるいは、

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

などで、真摯に思考を展開している東浩紀の文章にしても、妙に切断意識みたいのが表面に出ていて、「えっ? 近代文学って全部“自然主義的リアリズム”で整理できちゃうの?」みたいな戸惑いを覚える。

で……近代文学大好き中年男の心の底では「ダダイストやジョイスが見せてくれた20世紀モダニズムの始末を、どうつけてくれるんだ?」とか、「志賀直哉が書いた変テコな小説の方が、佐藤友哉より尖鋭的だろう」とか「どう贔屓目に見ても、舞城王太郎が古井由吉より小説言語に関するスキルが高級ってことにはならねぇだろう」とか、モダンな“イチャモン”がフツフツと沸き上がったりもするのだが……もう、そんなこと言って脂下がっている場合じゃないような気がして……

だから、例えば、東の振る舞いの問題は、やっぱり、批評的な言説が時代・状況の変化を掬い上げる時にとってしまう必然的な問題……というか、批評の自意識みたいな(モダンな)問題なのであって、そこらへんで煩悶しているうちに、外側の事態はどんどん批評的なものを置き去りにしていってしまうだろう。で……不安になって、とりあえず、ポストモダニスト宣言をしてしまったわけだが……

ポストモダニスト宣言はしてみたものの……それを、どう「批評」に反映させるのか? これが、厄介なんだよなぁ……なにせ、くどいけど、批評っていうのはモダン臭いし……

基本的には、モダンを恐れないポストモダニストを目指そうと考えている――って、解りにくいよなぁ……そこらへん、またフォロウして考えてみたいと思います。 

うぅむ……なかなか探偵小説の話に戻って来れないけれど……批評の自意識を経由して、ジャンルの自意識みたいなものに帰る細い道に、パン屑を置いていっているつもりです。