田中博ノート

探偵小説研究会の田中です。雑誌等に書きっ放しになっている文章や、手元にある未発表の文章を掲載しています。

2007-09-16 モダンとポストモダン――批評の問題《番外編・3》

まだ続きます……

だから――モダンは、自己批判回路を備えていたわけで、そんな“反・近代的”身振りも含めて“モダン”なのだとすれば……卑しくも“ポストモダン”などというからには、近代批判みたいなものに汲々としていてはいかんのじゃないか? 少なくとも、モダンを「相対化した」とか、「切断した」なんていうことを売り物にして油断していると、モダンの裏に張り付いていたグチャグチャしたものから、思わぬ反撃をくらったりするのじゃないか? モダンの裏として可視化されてきた微妙な諸々を“済んでしまったこと”みたいに扱うのはモッタイナイ。モダンを疎かにしちゃイケマセン……と、いうのが「モダンが大好き」とか「モダンを恐れない」ということなのだ。

前々回に引用した文章に「近代は、前近代もポスト・モダンも内包しつつ引き裂かれている。引き裂かれつつ、それらを回収し内包している。」というフレーズがあって、それは“モダニスト”としての言い草だったわけだが、これを“ポストモダニスト”に転向した立場から言い直せば「ポストモダンはモダンを内包している」ということになる。

切断とか、相対化じゃなくってさ……モダンの裏側なんかが表に出てきちゃったんだから……それは、もう“裏”じゃないんだから謙虚に考え直しましょう――みたいなことがあってもいいだろう。そんな状況が“ポストモダン”なんじゃなかろうか?

そっちの方が気が楽だよなぁ……というのが、多分、今回の「ポストモダニスト宣言」の正体なのだ。モダニストにしてみれば、なにがしかに“内包”されるなんて気持ち悪いのだが……まぁ、今までだって“裏”とか“外”とか言い訳してきたわけだけど……それでも、まだ“中心”にはいたつもりだったけれど(つまり、居直ってブチブチ言ってきたけれど)……状況も変わってきて「なんか片隅に追いやられちゃったよねぇ」と――そこらへん、スッパリ諦めをつけちゃえ――片隅からでもいいじゃねか、なにせポストモダンなんだから(つまり、開き直っちゃえ)みたいなことなのだ。

まさに、コペルニクス的転回!? コペルニクス以前の天文学でも、ウザッタイ計算を積み上げれば、とりあえず星々の運動はキチンと説明できたわけだ。でも「地球が中心じゃないよ」という前提に立つと、もっとスッキリ星々の運動を説明できるじゃんか! というのが、コペルニクス的転回。「コペルニクス的転回って、ゴリゴリのモダンなんじゃないの?」「アインシュタインはどうなのよ?」みたいなツッコミもあるだろうけど……まぁ、それは“比喩”として使ってるだけだから……なにせ、そんな状況が“ポストモダン”なんじゃなかろうか?

話を強引に「小説」の話に戻すけれど、例えば、「自然主義」だの「リアリズム」なんていうのは、誕生と同時にモダンな自己批判回路に回収され、屈折した自意識の中で、さんざんイジメつけられてきたわけだ。そして……まだ、イジメられている。つまり、イジメつけられるために生き延びてきたようなところもあるのだけれども……そろそろ、「自然主義」だの「リアリズム」をイジメても面白くないよねぇ――というか、そんな状況が“ポストモダン”なんじゃなかろうか?

前々回に「志賀直哉が書いた変テコな小説の方が、佐藤友哉より尖鋭的だろう」というフレーズを“モダン”の立場を装って書いたけれども、この二人を並べたのは、全くの無作為というわけではなく――ひょっとしたら、佐藤友哉の愛読者は、案外と志賀直哉なんか面白がるんじゃないないのかなぁ……みたいな感じがあったからなのだ。「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた」と、「檸檬」の冒頭に記した梶井基次郎などを間に挟んでもいいけれど……なんか、どうしようもなく“不機嫌”“景気悪い”みたいな気分は、共通するところがあるのじゃないか? もちろん、それぞれの“不機嫌”や“景気の悪さ”の正体は、「父との関係」とか「病気とデカダン」とか「現代の若者の憂鬱」とか――色々と詮索すれば、それぞれ色合いは違うだろうし、差異はいくらでも摘出できるだろうが……そういう詮索(分析的系譜付け)は無視して、「ともかく、どうしようもなく不機嫌で、なんか景気悪いよねぇ」みたいな所で短絡させてもOKなのじゃないか? そんな状況が“ポストモダン”なんじゃなかろうか?

そんな表層的で短絡的な思考は軽薄だ……「戦後派」だの「第三の新人」だの「内向の世代」だの「村上春樹的切断」だのをスッ飛ばして、日本近代文学史を無視している……とか、ポストモダンな小説はモダンと切断されているのだから比較にならない……とか、色々と反論はあるだろう。しかし――そういう、ウザッタイ議論なんか迂回してもいいのじゃないか? そんな状況が“ポストモダン”なんじゃなかろうか?

それじゃ批評にならない? そうなんだよなぁ……

でも、それを批評にしなきゃ“批評”の未来なんてないだろう。いや……実は、批評に未来なんてないような気もするのだが……「じゃぁ、批評やめます」というものでもあるまい。未来なんかなくても生きていける――と、いうか……ダラダラ生きていかなきゃならんでしょう? なんなら、淡々と粛々と「小説における一人称の変遷」みたいに、素知らぬ振りして志賀直哉と佐藤友哉の連続性を強調してみても“それらしいこと”を言えるのじゃないのか? あるいは、そうした諸々を、何故それらが「小説」の形をとってしまうのか? 異種メディアとの関係は? みたいな問題設定も「表象に関する一般理論」からは有効なんじゃないだろうか? モダンとかポストモダンにあんまり拘らないでさ……

などと書いているうちに……結局、俺の考えていること(思い付き・言いたいこと)は、あんまり以前と変わってないような気がしてきた。そもそも、モダニスト時代(?)に書いたものも、見方を変えればポストモダン風の要素が多い。例えば、いわゆる“新本格”登場以降の探偵小説シーンを「決算後の風景」なんていう風に表現していたわけで、こんなのは字面だけみれば(背景にあるモダンな理論に目をつぶれば)、まさにポストモダン風だ。“純小説的叙述”なるものを近代小説のスタンダードとして考えてはいたけれど、実は、そこからの逸脱みたいなところを注視していた――というか、そうした偏差に注目することでこそ“スタンダード”が浮かび上がったりしたわけだ。まぁ……浮かび上がった“スタンダード”に頼ってしまったのは「モダニストだったから」ということで、それは反省するのだけれど……見方を変えれば――俺って、実は、昔からポストモダニストじゃん! ということで――でOK?

OKじゃないよなぁ……

そろそろ、探偵小説とかジャンルの話に戻って、締めくくりをつけないと――

帰り道は……えぇと……