田中博ノート

探偵小説研究会の田中です。雑誌等に書きっ放しになっている文章や、手元にある未発表の文章を掲載しています。

2007-09-01 モダンとポストモダン――批評の問題《番外編・2》

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 前回の続きです。

「モダンを恐れないポストモダニストを目指そうと考えている」と、書いたけれども、それは以前の私が「ポストモダンを恐れるモダニスト」だったからで……

つまり、前回引用した文章からも分かるとおり、ポストモダン臭い言説に対して妙に敏感に反応して、そうした思考・志向・嗜好を無化することに、なんだか一所懸命だったわけで……それは、やはり、ポストモダン的な相対主義(いや、ポストモダニズムが単なる相対主義だと言いたいわけじゃないけれど)に対して、そんなことじゃ批評的なパースペクティブは維持できない……みたいな“恐れ”があったからだと考える。

だから、ポストモダニストになったからといって、逆にモダンを恐れて、それに対する相対化とか切断に汲々としていると――以前、自分が批判していたような、「ソフトモダニズム」というか「ネオモダニズム」みたいなこと――「マルクス主義」とか「近代の超克」とか「カウンターカルチャー」とか……結局、従来の“モダンな近代批判”みたいなものの繰り返しになっちゃうのは目に見えている。いや……別に、なっちゃってもいいんだけどさ……ウマイことさえ言えれば。

いいんだけど……例えば、メタフィクションとか、メタレベルとオブジェクトレベルの交錯とか、そういう“相対化”路線・切り口でポストモダンを論じるようでは、どうしてもウマクいかないような気がする。あんまり利口ぶると、ピントがズレるのじゃないか? 一度、バカにならないといけないような気がする……

そもそも、モダンが……と、いうよりモダンな考え方・言説が機能しなくなりつつあるのは、表向きのこと――と、いうか……モダンが(モダンな言説)が機能していた(ように見えていた)頃でも、現実はグチャグチャだったわけで、処理できない様々な事象がモダンの(モダンな言説の)底では犇いていたわけで――それが、メディア・テクノロジーの発展に伴い、取り繕えなくなってきた――と、いうこと(そこらへんは、「CRITICA」2号の拙稿を参照してください)なのだから……

例えば“近代国民国家”というゴリゴリのモダンなイデオロギー(って、この言葉も、実にモダン臭いけれど)に纏わる言説は、今までだって全ての現実を回収・配当しきれていたわけではなく――また、現在、それが全く機能しなくなったわけでもない(依然として、色々なことに対する回収・配当回路を維持している)。

さらに、例えば――小説の話で言えば、“自然主義的リアリズム”という看板(?)で過去の蓄積をモダンに括って、加齢臭を漂わせているから「ハイ、それまでヨ」――みたいな、そんな単純なことにはならないでしょう? あんまり、リニアに“モダン”の次は“ポストモダン”です――ってわけにはいかないでしょう?

つまり、モダンの看板の裏には色々とグチャグチャしたものが貼りついていたし……そして、それは、それなりに可視化されてきたとも思う。それを、看板と一緒に……盥の産湯と一緒に赤ん坊を捨てるみたいに……お払い箱にしちまうのは無茶で……

ぶっちゃけた話で、「モダン/ポストモダン」という対立より、「言説/現実」という対立の方がラディカルなはず――と、いうか……基本的に、私は後者にプライオリティを置きたい。

もちろん、ここらへんは実に微妙で……「モダン/ポストモダン」という対立は、“言説”の問題ではなく“現実”の問題である――とか……“言説”も“現実”の一部だし、むしろ“現実”なんてのは“言説”において可視化されるのだ――みたいな議論もあるだろうし――それは、それで、ある程度のところ納得するのだが……

そう……批評にとって、例えば“小説”は、問題とすべき“現実”の一部のように扱われたりすることもあるけれども、そもそも“小説”自体が“言説”の一種であったりするわけだ。ここらへん、微妙だよねぇ。言い換えると、小説を(まぁ、それが言説の一種であっても)現実として扱うか、それを言説として扱って“その向こう”に現実を透かし見るのか……ここらへん、微妙だよねぇ。「言説/現実」にプライオリティを置く以上、私の立場は基本的に後者になるわけだし、そうなると“リアリズム”みたいな問題が、どうしても浮上してくる。

こういう“微妙”なところをウロウロしていると、「モダン/ポストモダン」という区分が(少なくとも言説上の区分)が意味ないじゃん……ってことにもなるのだが(それが、以前のモダニスト田中の立場だったのだが)、現状の変化は、そんな風に居直ることじゃ遣り過ごせない――という不安に苛まれて……開き直ってポストモダニズム宣言をしちゃったのだが……ただし、「モダンが大好き」とか「モダンを恐れない」とか言い訳しているわけで……

“居直り”“開き直り”は、どう違うのよ?――と、いう疑問も当然あるし……実際、同じかもしれないけど……でも、チョットだけニュアンスがちがうでしょ? 微妙なんだけど……

解りにくいよなぁ……そこらへん、またフォロウして考えてみたいと思います。なんか、同じことの繰り返しというか――とめどなく“だらしなく”酔っ払いの繰言みたいになりつつあるけど……千鳥足でも一歩ずつ……


うぅむ……なかなか探偵小説の話に戻って来れないけれど……“メタフィクション”とか、それから、えぇと……“リアリズム”とか……なんだか、手持ちのパンが小さくなってきているけど……まだ、パン屑を置いていっているつもりです。

2007-08-21 モダンとポストモダン――批評の問題《番外編》

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さて……ポストモダニスト宣言などしてしまったわけだが、モダンとポストモダンの関係について、少し考えてみたい。「CRITICA」2号の原稿では、そこらへんを曖昧にしたままであったし……

とはいえ、実は、まだ曖昧なのだ。というか……この問題は“曖昧”にならざるを得ず、スッキリ決着がつくようなものではないような気がする。少し“だらしない”雑文口調で――その曖昧なところを曖昧のままに話を進めてみよう。

そもそも、批評めいた文章ってのは「モダン」臭い。そうした道具でポストモダンをいじっていると、「ポストモダンもモダンの一種じゃないの?」とか……「モダンの成れの果てがポストモダンなのかもしれない」とか……そんな気がしてくる。

かつて、モダニストだった頃の私は、次のようなことを書いている。

言い換えると、クラカウアーの時代に開始されたような「近代批判」は、ヘーゲルの時代に埋め込まれた「近代意識」を“折り返し”“裏返し”たものであるし、ポスト・モダニズムも――少なくとも、言説上の振る舞いにおいては、「近代批判」「近代意識」のバリエーションなのだ。

 週刊書評 第237回 『探偵小説の哲学』/批評の問題(3)

近代は、前近代もポスト・モダンも内包しつつ引き裂かれている。引き裂かれつつ、それらを回収し内包している。近代という切断的な歴史意識こそが(その実質は何であれ)前近代なるものを析出するのだし、したがって、ポスト・モダニズムという一種切断的な歴史意識も(その実質が何であれ)近代主義=モダニズムの範疇に含まれるわけだ。

 笠井潔『物語のウロボロス』(ちくま文庫)の解説

つまり、近代を“相対化”したり、近代を“切断”するような歴史意識は……とっても近代的で、それがポストモダンと言えるのか? そうしたことは、すでにモダンの中に折込み済みなんじゃないの? ということだった。モダニストの立場からは、こうした整理の仕方で充分――だったわけだ。ある意味で、こうしたイチャモンは今でも有効だろう。「時代はポストモダンだぜぃ!」みたいな、お手軽言説の中には「それって、今までさんざん言われてきたことの繰り返しじゃんか……」といった感想を持ってしまうモノもある。

あるいは、

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

などで、真摯に思考を展開している東浩紀の文章にしても、妙に切断意識みたいのが表面に出ていて、「えっ? 近代文学って全部“自然主義的リアリズム”で整理できちゃうの?」みたいな戸惑いを覚える。

で……近代文学大好き中年男の心の底では「ダダイストやジョイスが見せてくれた20世紀モダニズムの始末を、どうつけてくれるんだ?」とか、「志賀直哉が書いた変テコな小説の方が、佐藤友哉より尖鋭的だろう」とか「どう贔屓目に見ても、舞城王太郎が古井由吉より小説言語に関するスキルが高級ってことにはならねぇだろう」とか、モダンな“イチャモン”がフツフツと沸き上がったりもするのだが……もう、そんなこと言って脂下がっている場合じゃないような気がして……

だから、例えば、東の振る舞いの問題は、やっぱり、批評的な言説が時代・状況の変化を掬い上げる時にとってしまう必然的な問題……というか、批評の自意識みたいな(モダンな)問題なのであって、そこらへんで煩悶しているうちに、外側の事態はどんどん批評的なものを置き去りにしていってしまうだろう。で……不安になって、とりあえず、ポストモダニスト宣言をしてしまったわけだが……

ポストモダニスト宣言はしてみたものの……それを、どう「批評」に反映させるのか? これが、厄介なんだよなぁ……なにせ、くどいけど、批評っていうのはモダン臭いし……

基本的には、モダンを恐れないポストモダニストを目指そうと考えている――って、解りにくいよなぁ……そこらへん、またフォロウして考えてみたいと思います。 

うぅむ……なかなか探偵小説の話に戻って来れないけれど……批評の自意識を経由して、ジャンルの自意識みたいなものに帰る細い道に、パン屑を置いていっているつもりです。

2007-07-23 ポスト・モダン――

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と……いうわけで――懸案の「CRITICA」2号用の原稿を書き上げたわけだが、それが……なんとも……

まぁ……布石を打っただけの、ちょっと情けない仕上がりで……

この「田中博ノート」でフォロウしていこうと考えてはいるのだが……しかし、本文が出る前に言い訳するのもなんだし(と、言うこと自体が言い訳めいているけれども)、本格的なフォロウは、8月17日の夏のコミケで「CRITICA」がお披露目されてからにするとして、変テコな前宣伝みたいなことをしてみよう。

原稿のゲラ直しの段階で、煮え切らない自身のスタンスについて、もう少し鮮明に解りやすく表現すべきだろうな……と、煩悶した挙句、苦し紛れに次のようなフレーズを突っ込んだ。


どうやら、私は――ポスト・モダンが大嫌いなモダニストから、モダンが大好きなポスト・モダニストに転向してしまったようだ……


この言い草自体が、モダニズム臭紛々なのは自覚しているが、まぁ、それは転向(というモダンな)儀式として必要なものだったのだ。

で……今更な、この「ポスト・モダン」という呪文を、昨日の探偵小説研究会の例会の後の酒宴で連発してみたのだが……ただの酔っ払いの戯言のように扱われ、「いつもより面白くない」と切り捨てられ……これでは、いかん――と、あえて「ポスト・モダン」に固執するという、実に「モダン」なパフォーマティブな振る舞いに追いやられてしまい、かろうじて「田中さんの新しいギャグ」みたいな所で受け入れてもらえたような気もするのだが……

ようするに、ちょと――失敗したみたいだ。

でも、挫けたりしない。卑しくも「ポスト・モダニスト」宣言をしたからには、「挫ける」とか「屈折」とか「自意識」とか「弁証法」とか「相対化」とか……そんなのは、“モダニスト”振りという一つのコンテンツというか、芸風でしかないわけだから――私は、そういう芸風を愛する自分を棚に上げて慈しむ余裕を持った「ポスト・モダニスト」になってしまったのだから――

いや……こんなことをウダウダ書いている時点で「モダン」なのは承知している。でも、時間をかけて、段階を踏んで、僕は立派なポスト・モダニストになる……そういう、決意が「モダン」だとしても…… こんなことをアップするのが酔っ払いの勢いだとしても……それがモダンかポスト・モダンかは……どっちでもいいのじゃないだろうか?

2006-11-11日常と反省

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昨日の金曜日は、「2007 本格ミステリ・ベスト10」(原書房)の作品レビューの締め切りなのであった。私も、少しだけ書いたのだが……この原稿って、一応、これがランク・インしたら誰が書く――と、事前に打ち合わせて割り振りはしているのだが、実際に順位が決定してみると、一人の人にレビューが集中しちゃったりするわけで、バタバタと調整したりなんかして、けっこうタイトなスケジュールになってくる。私も、準備はしていたものの……昨日はビールを3リットルほど嚥下しつつ、頑張りました。

しかし……この“飲まなきゃ書けない病”はなんとかせんとなぁ……歳とってきて、身体がもたなくなってきている――アルコール・エンジンの燃費も悪くなって……まぁ、書く・書かないにかかわらず、日常的に飲んでいるわけで、根本的には“飲まなきゃ生きていけない病”なのだが……

さて、私が、どの作品について書いたかは……もちろん秘密。今回の「本ミス」は、過去十年を振り返る企画とか、いつものレギュラー・コンテンツ以外にも色々と趣向をこらしているので、楽しみにしていてください(宣伝モード)。

明日の日曜日(11月12日)は、文学フリマの日。探偵小説研究会も参加して、夏のコミケに続いて、「CRITICA」創刊号の販売を行います。当日の責任担当者は、蔓葉信博。円堂都司昭も出かけるらしい。他には、誰が行くんだろう? 俺はどうしようかな……お天気次第だな。夏のコミケに行きそびれ、通販もめんどくさいし……という人は、秋葉原へ来てください(宣伝モード)。

2006-11-01『大菩薩峠』と「反省」

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今日、仕事の帰りに本屋へ寄ったら――『ザ・大菩薩峠』を見つけた。

ザ・大菩薩峠―『大菩薩峠』全編全一冊

ザ・大菩薩峠―『大菩薩峠』全編全一冊

帯には「『大菩薩峠』全41巻1,533章570万字遂に全一冊化なる!! 文庫本20冊分がコンパクトな1冊になって6冊分で買えます」とある。スバラシイ! 迷わずレジへ持って行った。

奥付をみると、2004年の9月10日発行――もう、2年も前に出ている。う……うかつだった。全然、知らなかった。『大菩薩峠』ファンのくせに、これは恥ずべきことだ。実は……私は、『これだけは知っておきたい名作時代小説 100』(2004/9/23・フィールドワイ)というガイドブックで、『大菩薩峠』の項を担当していたりもする。

この原稿を書いたときに「最新版は何かな」と、一応あたったはずだが……記録を調べると、原稿を送付したのは2004年8月13日――タッチの差だったわけだ。まぁ、この『ザ・大菩薩峠』(1冊本)は、文字は小さいし、ルビは( )の中に入れられて本文と同じラインにぶら下がっているし、読みにくいこと甚だしく、解説も書誌データも何もない代物だから、他人に「これで読め」とは言いにくい。やっぱり、最初に読むなら、20冊あっても(お金がかかっても)、ちくま文庫版をお勧めしたいので、知っていても『ザ・大菩薩峠』を最新版として紹介しなかったろうけど……


しかし……あの『大菩薩峠』が1冊になっているというのは、やっぱり魅力だ。電話帳サイズで「コンパクト」と言えるかどうか微妙だが……枕元に置いておけば、いつでも好きなところを開けるわけだし……あの熱い、暑苦しい言葉の群が塊となってこの1冊に凝縮されていると考えるだけで、何かジーンとくる。手にしているだけで……手の中にスバラシイものを所有しているのだ……と、心が温かく優しくなる……


私が『大菩薩峠』を読んだのは大学生の頃。当時刊行中だった富士見時代小説文庫版で読み耽った。学生時代で時間に余裕があったことも幸いして一気読みした。面白かった。それだけでなく、色々と“小説”というものについて考えさせられた。この小説があるということで、日本近代文学は揺るぎない価値を確保できる――と、興奮した。で……何の因果か、運命の女神の導きか、翌年に大学の国文専攻のゼミで『大菩薩峠』が取り上げられ、私は心理学専攻だったにもかかわらず、そのゼミに乱入したのであった。

で……そのゼミのレジュメに書いた「作者-話者-読者」の関係に関する考察が……例の「純小説的叙述」を中心とした私の“文芸理論”の基となっている。もちろん、エラリー・クイーン・ファンクラブの機関誌「Queendom」にクイーン論を書いていたし、探偵小説についても色々思いを巡らせてもいたし、当時の読書データベースに占める探偵小説濃度は濃かったけれど、「純小説的叙述」云々は、実は、そっちの文脈から出てきたわけではないのだ。具体的サンプルが『大菩薩峠』で……理論的な背景は『言語にとって美とはなにか』(吉本隆明)だけが手がかりだった。

定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)

定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)

その後、ニューアカだのバフチンだの前田愛だのベンヤミンだのバルトだの……そんなのと色々と考え合わせて、「純小説的叙述」なるものをヒネリ出したわけだが、その第一歩は中里介山と吉本隆明だったわけだ。


で……何が言いたいかというと……例の「反省」の問題である。前回の(10月23日付けの)文章で……

具体的に言えば、ジャンルヒエラルキーを遠くから眺め――「純小説的叙述」なるものを中心から周縁に置き直し――「リアリズム」の(あるいは“リアル”の)根拠を問い直し――「小説の一般理論」という“底”を「表象の一般理論」にまで開き――特にテクノロジー問題を中心に、ジャンル教養的なものとは違う「歴史性」において考えてみたい……ということだ。

と、書いたが……そうした理論の見直しについて、そもそもの始まりであった『大菩薩峠』に一役かってもらおうと考えている。ミステリ・ジャンルとは一見無縁だが、そこまで退いてから考え直さないといかんよなぁ……ということなのです。

さらに具体的には……そのうちにね……