田中博ノート

探偵小説研究会の田中です。雑誌等に書きっ放しになっている文章や、手元にある未発表の文章を掲載しています。

0000-02-03  『オイディプス症候群』(笠井潔)

[]『オイディプス症候群』における本質直観――現象学推理探偵小説推理

オイディプス症候群

オイディプス症候群

矢吹シリーズには「本質直観」に基づく「現象学推理」なるものが導入されている。「論理の整合性は、かならずしも人を唯一の真理には導かない……一つの事象があれば、それについて無数の論理的に妥当な解釈が存在しうる……無数にありうる妥当結論の山から、真理に至るだろう唯一の道を発見しうるのは、本質直観である」と駆は語る。

一般的に、探偵推理は“小説”というステージの上で、その作品の都合にナビゲートされている。身も蓋もない言い方をすれば、探偵推理がうまくいくように事件は起きる。

作品に埋め込まれた作者の“作為”による舞台設定や偶然を、小説内部の登場人物は外部的なものとして受け取らざるをえない。そこに「推理」の倒錯した効果や面白味があるわけだが、現象学推理は、その倒錯を相対化した後に成立する。

矢吹シリーズで、倒錯者の役割を演じるのがナディア・モガールである。駆に言わせれば、ナディア推理は“いかにも探偵小説的”な推理……与えられたデータの組み合わせを現実の地平そのものと混同し、その内部における「整合性」を「真実」と短絡させる辻褄合わせに過ぎない。したがって、新事実の判明(作品世界の地平の更新)によって、ナディア推理は瓦解する運命にある。その廃墟にもたらされるのが、駆の現象学推理なのである。

これは、単なる複数探偵推理合戦ではない。ナディア推理を“探偵小説的”として退けることで――探偵小説推理と世界の関わり方を意識化した駆の推理は、探偵小説批判という特権性を確保する。本質直観は、複数解決の無限連鎖を切断し、作者の提示する世界の縁をなぞって形作られる。つまり、作者の作為(作品の“本質”)を巡る直観であり、だからこそ、反・探偵小説(アンチ・ミステリ)的な契機を獲得することができる。実際、駆シリーズの解決には、特殊な犯行動機など、いわゆる黄金期的フェアプレイ倫理を裏切っているケースが散見される。もちろん前述した手順を踏むことで、それが“アンフェア”であるという印象は薄まっているし、逆にフェアプレイの基準を窮屈な探偵小説的制約から解き放ち、“単なる探偵小説以上のモノを呼び込む通路として機能してきた。

シリーズ第四作である『哲学者密室』(1992)から、笠井の姿勢は、探偵小説批判の延長として「探偵小説論」を作中で展開する方向へ傾斜する。笠井は「大量死」と「密室の死」を対置し、密室に関する本質直観を独自の探偵小説論に結びつけてみせる。これは「本格探偵小説の第三の波」――つまり、綾辻行人の『十角館の殺人』(1987)を契機とした、日本における本格探偵小説ルネサンスと無縁ではない。笠井は、自身の試みと同じく黄金期風スタイルを踏み台にしたムーブメントに触発され、さらなる問い直しの視線を本格探偵小説に向けたのだ。「本格探偵小説の第三の波」の特徴は、150年間に蓄積されたミステリの様々な“手法”を本格スタイルに還元しつつ、そこに抽象化された形式を見出す試み……逸脱さえも形式化しようとする志向に貫かれていた。そこで改めて露出したのが、極度に人工的な構造である。

前作以上に『オイディプス症候群』(2002)は、新しい「探偵小説」と「世界」の関わり方を意識している。まさに『十角館の殺人』と同じく、孤島という閉鎖空間で発生する連続殺人が描かれ、むき出しの人工性に対して本質直観が突きつけられるのだ。閉鎖空間の中で錯綜する「犯人の作為」と「偶然(作者の作為)」の網目を、駆の推理は切り裂く。

さらに、『オイディプス症候群』における現象学推理は、従来の機能から一歩踏み込んでいる。以前の作品では「作者と密かに姦通している名探偵韜晦」のようなものであった現象学推理が、探偵小説的閉鎖に抜け道を作るような機能を果たしていた。しかし、この作品で駆が物語の途中で展開する「閉鎖空間」と「連続殺人」に関する本質直観は、ある意味で正直に作品世界の地平を素描し、それを閉じるような機能を担っている(推理それ自体が手がかりとして機能しているといってもよい)。その閉じられた世界の中で、改めて犯人を限定する論理が繰り広げられる。凶器の水中銃と、それが置かれていた小屋の鍵を巡る推理は、むしろ“探偵小説的”である。この奇妙な捩れ……それが『オイディプス症候群』の秘密である。現象学推理探偵小説推理サポートするというさらなる倒錯。これは、「孤島」や「小説」という閉鎖域に関する思考に強いられた現象学推理自意識といってよい。閉鎖された空間内で錯綜する視線――あるいは錯綜する視線によって閉鎖される空間という認識――それは、『オイディプス症候群』でフィーチャーされた、ミシェルフーコー思考と交錯する問題なのである。

 光文社「GIALLO」(2002年夏号)

0000-02-02  『前世ハンター』(野崎六助)

[]ザラザラした感触『前世ハンター』を読む

前世ハンター

前世ハンター

実際の日本とは少しズレたパラレル・ワールドに屹立する大手ゼネコン会社。カンパニーと呼ばれる特務機関のような組織が、小は社内恋愛の監視から大は派閥抗争への介入、不祥事のもみ消し……そして暗殺まで請け負っている。社内のカウンセリング・ルームでは、いかがわしい前世療法が行われているのだが、そのプロジェクトで事故が発生し、社員が変死してしまう。前世療法プロジェクトの背景には何が隠されているのか? 一組の男女が互いの前世に導かれながら、敵も味方も判然としない陰謀の渦に巻き込まれていく。

さらに、忍者のようなクローン人間たちとか、銃撃戦とか、テレビ・ドラマみたいなOLたちの会話とか、暴走族とか……野崎六助のジャンキーな感覚が満載されたストーリイは、ミレニアム・カウントダウンのクライマックスに向けて、つんのめるように突進していく。

物語の中心になっているのは、タイトルが示すとおりである。仏教における輪廻転生や、ダライ・ラマの後継者探しなど、アジア的思考法にとって“前世”“生まれ変わり”は親しいものだ。折口信夫によれば、大嘗祭も新たに天皇霊を受け入れる一種の“生まれ変わり”の儀式ということになる。小説では、三島由紀夫の『豊饒の海』がすぐに思い出されるが、過去と現在と未来が交錯してダイナミックにストーリイが展開していくあたり、『前世ハンター』の印象は、石川淳の『狂風記』などに近いだろう。

ただし、伝奇小説的色彩は薄い。持ち出される前世にしても、遠大な時間軸を遡って……というわけではない。一代前とか、せいぜい二代前くらいのものである。射程は短いが、しかし、これは長けりゃいいというものでもないだろう。過去や未来を扱う小説が陥りやすいのは、長い時間軸の設定が逆説的に近視眼的な図式を構築してしまうということだ。未来と過去が物語的な場において短絡し、核戦争後の世界にアレクザンダー大王みたいな支配者が君臨してしまったりする。極端な例だが、映画の『スター・ウォーズ』などで示される壮大な宇宙的スケールは、形式化されてしまった寓意のようなものにすぎない。それも、また良し……だとしても、ともかくザラザラした感触は失われてしまう。

野崎六助の小説はザラザラした感触に溢れている。前作の『煉獄回廊』(1999)は、1970年代の回顧が中心に据えられていたが、物語の現在時点は1988年から1989年にかけて、昭和天皇が死にそうになっている御時世だった。『前世ハンター』の時制は現在進行形で、巷はミレニアム・カウントダウン(1999年の年末)に突入しようとしているのに……何故か“あの御方”はやっぱり死にそうである。うぅん、ザラザラしている。作中でたびたび傍点を付されて強調されるように、『前世ハンター』の世界では、西暦と元号に一年のズレがある。もちろん、前述したように舞台はパラレル・ニッポンであり、「品川」が「雛川」に、「お台場」が「お泥場」にすり替えられているから、どんなことがあっても気にすることはないのかもしれない。しかし、この微妙な一年のズレには野崎の拘りが反映しているのだろう。基本的に荒唐無稽な小説において、現実との差異を紙一重のところに設定することで、野崎は現在の日本に対する違和感を表明していると言い換えてもよい。

『前世ハンター』は、何でもありの整合性も危うい設定でリアリズムを足蹴にしながら、もう一方で妙に生々しい現実との摩擦がある。“生まれ変わり”という時間軸上のコピー問題と、クローンという別のコピー問題がすれ違う。映像的なシーンと登場人物の内面描写の鮮やかな対比……こうした屈折は、かなり戦略的なもののようだ。文体も、主要登場人物について三人称で書き出されながら、その登場人物の一人称にスッと移行してしまう妙な叙述方法がとられており、洗練された小説の方法論から、はみ出している。珠玉のように磨き上げられた作品だけが上等というわけでもあるまい。野崎が構築する世界のチグハグな感じは、小説というものが本来持つ猥雑なアクチュアリティ……その一つの形であることは間違いない。読者に投げつけられた異物としての言葉といえるかもしれない。

   新潮社「波」(2001年8月号)

野崎六助については、“e-NOVELS”というサイトで、紹介文を書いています。興味がある方は、【紹介文《批評編》】とか、【紹介文《小説編》】

をクリックしてください。

0000-02-01  『失踪者』(折原一)

[]『失踪者』(折原一) 小説の勝利と危機

失踪者 (文春文庫)

失踪者 (文春文庫)

埼玉県久喜市で発生した連続失踪事件。三人の女性が消息を絶ち、そのうち一人の自宅付近には「ユダ」と記されたメモが残されていた。事件は迷宮入りするが、15年後に同じ町で、同じようにOLが失踪する。一ヵ月後に発見された死体の傍らには「ユダの息子」というメモが残され、さらに現場付近の竹薮には15年前の失踪者らしき白骨死体が(何故か新しいビニール袋に詰められて)遺棄されていた。ルポライターの高嶺隆一郎は、助手の神崎弓子をともない久喜市に赴く。当然のように、15年前の重要容疑者が再び疑惑にさらされる。元不良青年の下柳前科者の理容師玉村、そして少年法に守られ、現在では消息を追うのが困難な「少年A」。

昨年の『冤罪者』(1997)で折原一冤罪事件を取り上げた。今回のトピックは、酒鬼薔薇事件以来ジャーナリズムを騒がせている「少年法」である。このように書くと、いわゆる「社会推理小説」が連想されるかもしれないが、それは短絡的にすぎる。折原には松本清張流の反骨社会批判志向は希薄だ。かといって、おざなり時事問題を導入して現代風を装う安直傾向でもない。様々な「問題」の社会的アクチュアリティを括弧に入れ、小説論理という仮構されたステージトランプの城を築くような繊細さで組み直すのが、折原の方法である。『冤罪者』では、冤罪を晴らしつつも犯罪磁場から逃れられない男という皮肉な設定で、サスペンスを構築した。『失踪者』(1998)では、「少年法匿名性」の問題が、そのまま「謎」を生産している。

15年前の「少年A」が正体不明のまま、現在の事件でも未成年者が逮捕され、やはり「少年A」と呼ばれることになる。「少年A」という記号の背後で過去と現在が交錯する。匿名性を利用した仕掛けは、それだけではない。作中に挿入される、「父」から「息子」への手紙にしても、両者の固有名が捨象されているため、物語の中で明確な位置を得られずに浮遊している。そして「ユダ」「ユダの息子」の正体をめぐる謎。

少年A」「父」「息子」「ユダ」「ユダの息子」という記号と、一方で固有名を明示されている登場人物群、さらには十五年前と現在の間に錯綜する関係軸・時間軸を往還して、折原得意の「叙述のマジック」が展開する。回顧口調の「序」にはじまり、「父からの手紙」、「ユダの息子」の思わせぶりな独白、「少年A」に関する教師たちのコメント被害者の視点から描かれる犯行現場の情景、あやしげな容疑者たちのエピソード……それらが小説の地の部分を構成する叙述の間に挿入され、あるいは交錯する。折り重なる言説の群は、読者を混乱させるミスディレクションであると同時に、真相に至る伏線を内包している。読者は、この二重性に引き裂かれつつ、鮮やかなドンデン返しが用意されている結末に向けて運ばれて行く。様々な言説のそれぞれに潜在するコードの落差に乗じて、登場人物の内面やキャラクターは分割されている。最終的に見出される真相が、犯人像や言説群の配置関係を明確に照らし出すとき、読者は改めて初めの頁に連れ戻される。折原の作品は(そして、原理的に探偵小説は)常に二度読まれるのだ。

探偵小説は、M・バフチンが指摘したような近代小説モノローグ性に対して、皮肉なプロテストを続けてきた。ステレオタイプ探偵小説なら、読者はひとまずワトソン医師言葉を受け入れたうえで、結末でホームズ言葉に驚く……という二枚腰のテクストで構成されている。折原の作品においては、これがさらに先鋭化され、テクストは二枚腰どころか多面体をなしている。読者は冒頭から様々な言説相互の不連続性や矛盾を突きつけられ、翻弄されるのだ。

ただ、今回いつもの折原節を堪能しながら、少し気になったことがある。声の均質性とでもいえばよいのだろうか……それも仕掛けの一部なのだが、ルポライター言葉手紙、独白といったフォーマットの差異を越えて、「声」が同じように響く。別種の言説でありながら、それぞれがひとしなみに「小説化=モノローグ化」されてしまっている。

これは折原の問題というより、言説空間全体の小説化という現代の傾向を背景に考察されるべきだろう。例えば、島田荘司の『三浦和義事件』(1997)というノンフィクションが、マスコミ被疑者検察のそれぞれがつむぎ出すフィクション三重唱という形で書かれてしまったり……、地下鉄サリン事件被害者へのインタビュー集『アンダーグラウンド』(1997)の隅々にまで、小説家村上春樹の声がこだましていたり……。それらは、やはり松本清張スタイルからは切断されているし、また、単純な比較は危ういが、『レイテ戦記』(1971)などの歴史小説で、大岡昇平が蓄積された記録と格闘しながら、針金を震わせるように小説家の声を響かせていたのとも対照的だ。

三浦オウム真理教酒鬼薔薇などの事件を通過して、ルポやノンフィクション報道や記録などの事実性に立脚する言葉が、なしくずし的にソリッドな客観性を失いつつある。その隙間に、モノローグ的な小説言葉エーテルのように浸透してきているのだ。このような「汎小説化」傾向は、小説の勝利に見えて、実は、一種の危機であるにちがいない。言文一致運動以来、小説は、他の様々な言説との緊張関係を背景に自身を立ち上げてきたはずだ。「汎小説化」は、その緊張関係を緩和してしまう。

多様な言説のアンサンブルである折原の作品は、その危機に最前列で直面せざるをえない構造に貫かれている。言い換えれば、声の均質性を「騙し」に利用することで危機を相対化し、探偵小説の構造に折り返すアクロバットとして読まれるべき作品なのだ。

   文藝春秋社「本の話」(1998年2月号)