市川尚吾の蔵出し

2100-01-01過去原稿総括

[]過去原稿総括 14:20

市川尚吾が過去に書いた原稿を媒体ごとにまとめてみた。

■文庫解説2冊

『人狼城の恐怖 第二部フランス編』二階堂黎人/講談社文庫

『新世紀「謎」倶楽部』新世紀「謎」倶楽部/角川文庫

■「本格ミステリ・ベスト10」

2000年 国内投票(東京創元社)

2001年 国内投票(原書房。この年までは一般人。翌年から研究会員として参加)

2002年 国内投票、17位『たったひとつの』紹介、20位『建築屍材』紹介、

      「本格ミステリファンのためのインターネット活用術」、研究会の一年

2003年 国内投票、20位『世界は密室でできている。』紹介、国内座談会、

      「ネット読者も黙っていない! 今年は大量投稿 MY BEST RANKING」、

      コラム3本「新人作家総まくり」「文庫書き下ろし」「陽気な於漫亜種たち」、

      研究会の一年

2004年 国内投票、15位『ミステリアス学園』紹介、

      17位『「アリス・ミラー城」殺人事件』紹介、国内座談会、

      「もっと自己主張を! ネット読者が選んだ MY BEST RANKING」、

      コラム「閉鎖状況大流行」、研究会の一年

2005年 国内投票、14位『魔術王事件』紹介、20位『ウサギの乱』紹介、

      国内座談会、コラム「天然カー、オマエモカー」、研究会の一年

2006年 国内投票、6位『交換殺人には向かない夜』紹介、9位『ゴーレムの檻』紹介、

      19位『御手洗潔対シャーロック・ホームズ』紹介、20位『痙攣的』紹介、

      コラム2本「2005中短編集総括」「2005世相とミステリ」、研究会の一年

2007年 国内投票、1位『乱鴉の島』紹介、10位『仮面幻双曲』紹介、

      17位『少年は探偵を夢見る』紹介、18位『帝都衛星軌道』紹介、

      コラム2本「2006中短編集の収穫」「2006世相とミステリ」、研究会の一年

2008年 国内投票、国内総評、10位『心臓と左手』紹介、

      18位『Rのつく月には気をつけよう』紹介、国内座談会、

      新本格20周年記念座談会進行、エッジ系『眩暈を愛して夢を見よ』紹介、

      コラム3本「2007中短編集注目作」「2007世相とミステリ

      「マイナーリーグ注目作」、研究会の一年

2009年 国内投票、国内総評、9位『エコール・ド・パリ殺人事件』紹介、

      国内座談会、コラム「2008世相とミステリ」、研究会の一年

■『本格ミステリこれがベストだ!』東京創元社

2001年 座談会

2002年 評論「メフィスト賞作家たちの健闘」

2003年 評論2本「ジャンル原論」「二人の奇蹟鑑定家」、

      オススメ『フォア・フォーズの素数』

2004年 評論「きみとぼくの壊れていない真相」、

      オススメ『十字架クロスワードの殺人』

■『本格ミステリ・クロニクル300』原書房

『卍の殺人』『ブラディ・ローズ』『三重殺』『予告された殺人の記録』『金雀枝荘の殺人』『蝶たちの迷宮』『七人の中にいる』『タイム・リープ』『藤田先生のミステリアスな一年』『コズミック』『歪んだ創世記』『思案せり我が暗号』『ドッペルゲンガー宮』『真っ暗な夜明け』『中空』『硝子細工のマトリョーシカ』『マリオネット園』『今日を忘れた明日の僕へ』『アイルランドの薔薇』『双月城の惨劇』『見えない精霊』『密室の鍵貸します』の22作品を紹介

■『現代作家大事典』明治書院

飛鳥高、鮎川哲也、石沢英太郎、今邑彩、岡田鯱彦、海渡英佑、楠田匡介、黒田研二、小泉喜美子、西東登、佐野洋、島久平、島田一男、深谷忠記、吉村達也、和久俊三の16人の略歴。

『細い赤い糸』『黒いトランク』『りら荘事件』「視線(短編)」『卍の殺人』『薫大将と匂の宮』『伯林 一八八八年』「脱獄を了えて(短編)」『硝子細工のマトリョーシカ』『弁護側の証人』『蟻の木の下で』『一本の鉛』『華麗なる醜聞』『硝子の家』「社会部記者(短編)」『1万分の1ミリの殺人』『幽霊作家殺人事件』『仮面法廷』の18作品の紹介

■雑誌「ジャーロ」光文社

16号 ニアミステリな関係 第16回 『夢の密室』/『奇偶』

31号 MYSTERYランダムウォーク第1回 透明人間

■『ニアミステリのススメ』原書房

 「詭弁トリックの系譜」(ジャーロ16号の原稿再録)

■雑誌「ミステリーズ!」(本格ミステリ・フラッシュバック)東京創元社

01号 『リア王密室に死す』紹介

02号 『変人島風物誌』紹介

03号 『瀬戸内海殺人事件』紹介

04号 大谷羊太郎略歴、『死を運ぶギター』『真夜中の殺意』紹介

05号 『三毛猫ホームズの推理』紹介

06号 長井彬略歴、『原子炉の蟹』『殺人オンライン』『北アルプス殺人組曲』紹介

09号 辻真先略歴、『盗作・高校殺人事件』『紺碧は殺しの色』紹介

10号 『猫は知っていた』紹介、

    鷲尾三郎略歴、『死臭の家』『悪魔の函』『呪縛の沼』紹介

11号 『名探偵なんか怖くない』紹介

■『本格ミステリ・フラッシュバック』東京創元社

ミステリーズ!」の連載に書き下ろしを加えたもの。以下を担当。

作家紹介23人(太字は書き下ろし)。泡坂妻夫、池田雄一、石沢英太郎、大谷羊太郎、風見潤、小林信彦、清水義範、柴田錬三郎、竹本健治、司城志朗、筑波孔一郎、辻真先、土井行夫、長井彬、中井英夫、林美土里、東野圭吾、広瀬正、藤本大三郎、藤原宰太郎、余志宏、輪堂寺耀、鷲尾三郎。

作品紹介66作品(太字は書き下ろし)。『三毛猫ホームズの推理』『りら荘事件』『天井のとらんぷ』『死者の輪舞』『しあわせの書』『出雲3号0713の殺意』『猿丸幻視行』『殺意の演奏』『死を運ぶギター』『殺人航路』『真夜中の殺意』『三度目ならばABC』『喪服を着た悪魔』『海を見ないで陸を見よう』『リア王密室に死す』『海の稜線』『大統領の密使』『神野推理氏の華麗な冒険』『紳士同盟』『殺人の棋譜』『泡の女』『一本の鉛』『幽霊紳士』『犯罪待避線』『御手洗潔の挨拶』『ABO殺人事件』『瀬戸内海殺人事件』『成吉思汗の秘密』『最優秀犯罪賞』『変人島風物誌』『匣の中の失楽』『将棋殺人事件』『トランプ殺人事件』『狂い壁狂い窓』『月をのせた海』『神様の誘拐』『死はわがパートナー』『盗作・高校殺人事件』『改訂・受験殺人事件』『紺碧は殺しの色』『三重露出』『陽気な容疑者たち』『名なし鳥飛んだ』『大いなる幻影』『原子炉の蟹』『殺人オンライン』『北アルプス殺人組曲』『虚無への供物』『猫は知っていた』『緋の記憶』『名探偵なんか怖くない』『美土里くんの「ドライツェーン」』『卒業』『白馬山荘殺人事件』『学生街の殺人』『T型フォード殺人事件』『バイオ探偵の事件簿』『密室の死重奏』『高層の死角』『明治断頭台』『貸しボート十三号』『蒔く如く穫りとらん』『十二人の抹殺者』『運命の八分休符』『死臭の家』『悪魔の函』『呪縛の沼』。

■同人誌「CRITICA」

1号 「没コラム蔵出し」、編集後記

2号 「横溝作品に見た長編の《構図》」「没コラム即出し」

3号 「本格ミステリの軒下で」、編集後記

e-NOVELSの週刊書評等で書いた原稿は、2009年3月6日から10日のエントリにサルベージしました。

「二階堂黎人特集」「探偵小説研究会特集」「京極夏彦特集」に書いた原稿はここ

『新・本格推理01』『着流し探偵帖 青空の下の密室』の週刊書評ここ

『楠田匡介名作選 脱獄囚』『人魚とミノタウロス』『嘘つきパズル』の週刊書評ここ

『密室に向かって撃て!』『九十九十九』『目を擦る女』『セリヌンティウスの舟』の週刊書評ここ

『天帝のはしたなき果実』『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』『トリック・ソルヴァーズ』『爆発的――七つの箱の死』『浮遊封館』『肺魚楼の夜』『踊るジョーカー』の週刊書評ここ

2016-10-16

[]48グループの申し子 22:53

生年月日を8桁の数字「YYYYMMDD」で表記することがよくある。区切りのスラッシュを入れた表記のほうがよく見かけると思うが、そのスラッシュを抜いた形を、たとえばメールアドレスとかツイッターのアカウントとかを作成するときに、普段ローカルに使っている「t-szk」とかだとなかなかユニーク(一意)にならないので、生年月日まで入れれば誰とも被らないだろうと入れるときなどに、8桁の数字が使われたりする。

その8桁の数字を構成する「8つの数字の合計」を考えてみる。たとえば僕の場合、1963年10月30日生まれなので8桁表記は「19631030」であり、合計値は1+9+6+3+1+0+3+0=23になる。

ではその合計値の最大はいくつかというと、これが「48」なのである。しかもその「合計の最大値」を持つのは8桁表記が「19990929」の人、すなわち1999年9月29日にピンポイントで生まれた人だけなのだ。これは約千年後、2999年9月29日までは抜かれない記録である。

いま生きている人の誕生日は100年超(四万日弱)にわたっているが、その中で合計値「48」を持つのはただ一日、1999年9月29日生まれだけ。

だったら、この「特異日」に生まれた女の子が48グループに入り、センターポジションを獲得する、という物語を見てみたくなるじゃないですか(合計値が「46」の子が46グループ[坂道グループ]に入って活躍するという話でも良いのだが、その場合「46」が最大値じゃないのが弱い。今回のこの話は「誕生日の8つの数字の合計」の最大値を僕が考えたときに、たまたま「48」になったので「おっ」と思ったのがすべての始まりだから、特別な数字[最大値]じゃない「46」で考えて該当者がいたとしても、そんなに興奮ははしないだろう。数字を減らせばハードルは下がるし、たとえばチーム8には「8つの数字の合計が8になる」メンバーとして横道侑里[2000年10月23日生まれ]がいる)。

というわけで調べてみたのだが、AKB48だけでなく姉妹グループまで範囲を広げ、さらに現役だけでなくOGにまで範囲を広げても、1999年9月29日生まれのメンバーは在籍していなかった。でも現時点で高校2年生の17歳。まだこれからグループに加入してくる可能性はある(年齢が上がるにつれて可能性は低くなるので、悠長なことは言ってられないのだが)。

日本国内に限定すれば、一日に生まれる赤ちゃんの数は概算で二千人。半分が男子なので女子は千人。そのうちアイドルを目指している子が何人いるかは知らないが、さらにアイドルになれる容姿や性格を持っていること、恋愛中でないこと(過去に致命的なことをSNSで暴露していないこと)等の条件を満たしている子がもしいたとしたら、その子こそ「48グループの申し子」として、運命の子として、ごり押ししてもいいのではないか。

実はこの一週間ほど、AKB48では16期生オーディションというのをやっていて、最終候補に残っている69人のうち希望する者は、SHOWROOMという動画生配信サービスを使って、ファンにアピールするというお試し配信を行っていたのだ。そういう形で各候補生の年齢や生年月日に関する情報が拾える状態にあり、注目していたのだが、高校2年生17歳というのがそもそも少なくて、全員のぶんはわからなかったものの、とりあえず目に入った範囲では「19990929」生まれの子はいなかった。「48グループの申し子」はまだ見つかっていないようだ。

代わりに「2000年10月10日生まれ」の候補生を見つけた。この合計値「4」は現存する人間の最小値である(千年前には合計値が「3」になる人間がいた)。ただし合計値が4になるのは(最大値48の場合とは違って)ピンポイントで一日だけというわけではなく(2000年生まれは必須だが)、該当する誕生日は四つで、「10月10日」の他に「1月1日」「1月10日」「10月1日」がある。最大値を探していたら最小値を見つけた形だが、とりあえずこの子を採っておけば、後に「1999年9月29日生まれ」が見つかったときには、「最大と最小」で対立軸が作れるな、と思ったりもした。しかし残念ながら最小値の子は、本日行われた最終審査で落ちてしまったのであった。

自分が運営側だったらそんな理由でその子を採っていたかもしれないが、まあ仕方がない。というか、実はチーム8の山本瑠香が「2000年10月10日生まれ」で、すでに48グループに「最小値」は在籍していたのだった。

というわけで運営は、山本瑠香のことを「よよよよよよよよよよよよよよろしくね」。

2016-05-18

[]女性を蔑視してるのは誰? 10:39

秋元康が作詞したHKT48の曲「アインシュタインよりディアナ・アグロン」がなぜか「女性蔑視」だということでバッシングを受けているらしい。

アホじゃないの?

バッシングしている人たちは、秋元康が「女の子はこうあるべき」と思って歌詞を書いたと解釈しているのだろうか?

小説にしろ歌詞にしろ、素人が書くと、読み手や聞き手に共感してもらったり感動してもらったりすることが目的になって、自分の経験とか理想像とかを書いてしまいがちだ(といっても、そういうメッセージ性の強い創作物はもちろん、プロでも書いていいし、そういう内容だから素人レベルといって貶すつもりでこの文章を書いているわけではない)。

プロは創作時の考え方がそもそも異なる。「主人公が良い子の話」は世の中に氾濫しているので、それ以外の設定でもっと豊かな物語が作れるのではないかということを考えて、読者が共感できないような嫌な性格の主人公を用意して、その部分では減点されても(共感したくて読む読者は多いからね)、でも「そういう設定だったからこそ成り立つ面白い物語」を時には模索したりする。

秋元康が多くの女性アイドルグループをプロデュースしてきたことや、48グループ関連曲だけでも千曲以上を作詞してきたということを知っていれば、そこで描かれている女性像が多様性に富んでいることは想像できるだろうし、もし多様性に富んでいなければ、それは「女性はこうでなければならない」というふうに、決められた型に世の中の女性を押し込もうとしているとして、逆にバッシングを受けるべき事態となることも、容易に想像できるだろうに。

そう。要するに、多様な女性像を描くことの一環として、秋元康は「アインシュタインよりディアナ・アグロン」で「軽薄な考え方で人生を生きている女性」の姿を描いているのだ。

バッシングをしている人のまわりには、そういう女性はいないのかもしれないが、秋元康が歌詞に書いたような考え方をする女性は、世の中に存在していてはいけないのだろうか? 存在は許されているとしても、彼女たちの考えを代弁する歌詞を創作してはいけないのだろうか? 彼女たちはマイノリティとして、言論を封殺されなければならないのだろうか?

秋元康が「アインシュタインよりディアナ・アグロン」を書いたときに、多くの若い女性からの共感を求めて書いたとは思えないし、それは歌詞を見れば明らかだと思うんだけど、いわゆる良識派の人たちは、そのレベルで理解力が欠けているのだろうか? 大多数の人が共感しない場合でも、こういう子っているよね、いていいよねと聞き手が思うことで、一部の、その歌詞に共感するタイプの女性が、救いを見出したり、明日を生きる助けになっていたりする場合もあるということを考えて、この歌詞は書かれていると、個人的には思うのだがどうか。

ディアナ・アグロンという女優(および彼女がドラマ「glee」で演じているクイン)は、カワイイだけじゃなく内面も磨いているところが魅力的なのに、外見だけで中身はバカでいいという歌詞に使われるのは、彼女とドラマに対して侮辱だ、というような批判もされているようだが、秋元康が歌詞にそう書いたから、彼がディアナ・アグロンおよびドラマ「glee」をそう見ている、という解釈はあまりにも短絡的だ。論理的に導き出されるのは、少なくとも彼が書いた歌詞の主人公の軽薄な女の子がそう見ている、というところまでである。この歌の主人公の軽薄な少女には、そんな内面的な魅力も併せ持つディアナ・アグロンも、ただ外見だけがカワイイ子としか見えていない、というだけの話であり、そのキャラの設定には一貫性がある。カワイイだけで世の中を渡っていけると思っている主人公には、ディアナ・アグロンやクインの内面の豊かさが見えずに、外見の可愛さだけしか見えていない、そんなふうに他人を見る目も薄っぺらい主人公を設定して、彼女の目から見た世の中を歌にしているのである。多くの人がその物の見方に共感できないにしても、それがある意味で新鮮だったり、ひいては人間の多様性を感じさせたりする部分に、こういう、マイノリティの内面を描いた歌詞の存在価値はある。

僕からすれば、明らかに「あえて」そうしているのだし、秋元康はわかってやっている。それを理解した上で「どうしてそんな薄っぺらい女性を主人公にして歌詞を書いたのか」という部分で批判を展開するのならまだ議論の余地はあるが、そこに至っていない人たちのバッシングは、低レベルすぎて話にならない。

想像力が欠けているのは、秋元康なのか、秋元康をバッシングしている人たちのほうなのか、一度冷静になって考えてみてほしい。


毎日新聞という公器が、この件をネット記事にしたのだが(紙媒体で記事になっているかどうかは購読していないのでわかりません)、こういう騒動があったという紹介と、バッシングしている側(驚いたことに大学の教授だったりする)の言い分だけを載せていて、それとは逆の意見──「その解釈は浅はかだし、それは結果的に一部の女性の存在を否定するというマイノリティの差別に繋がりさえする」という、ここに書いたような「ごくアタリマエの分析」すら載せていないので、これはバランス感覚に欠いた取り上げ方だと気になって、急いでこの文章を書いて、人から見える場所に置いておこうと思った次第。「言論の自由」を守るべき新聞社が、こんなふうに言論封殺の勢力に味方する(と書いては言いすぎだが、言論封殺側の意見は載せて、反対意見は「回答がなかった」で済ませる)ような記事を書いていいの? 秋元康に質問状を送ったが回答を得られなかったとか書くだけで済ませずに、自分でほんのちょっとでも考えれば、今回のバッシングが「言論の自由」を脅かすものだということはわかるはずだし、新聞社の立場としては記者自身が「自分の考察」としてここに書いたような反対意見を載せて、紙面のバランスを取るべきだったんじゃないの? 新聞社はここまで「役に立たない公器」になり下がってしまったのか(ちなみに「大学教授」についてはいろんな人がいていいと思っています。教わっている生徒にとっては災難だろうが自己責任ということで。生徒たちが教授の指導で考えたという替え歌が紙面で紹介されていたが、この歌の特徴である「軽薄さ」という個性を殺して平均化する方向での歌詞の改変であり、個人的にはファッショ的うすら寒ささえ感じた。個人的にこういう「教育」は子供たちに受けさせたくないものである。毎日新聞はそう考えていないようですけど)。


というわけで、バッシングしている人がこの文章を読んで、多少なりとも自分の意見を割り引いて考えていただけたら幸いです。まあこんなところまで見に来る人はいないか。ほぼどこからもリンクが張られていないし。

2016-04-27

[]A案かー 13:31

東京五輪2020の新エンブレムがA案に決まったけど……。

市松模様の藍色のマス目の数を数えてみると45個。どういう意味があるのだろう?

うーん、調べてみたら、深い意味は特にないということのようね。47個にすれば「都道府県の数」と同じになって、建前は「オリンピックは都市(今回は東京都)が開催するもの」なんだけど、本音の部分で「日本という国で開催される」という意識は国内でも海外でも共有されていると思うので、どうせ45個まで近づいていたんなら、あと2個増やして47個にすれば良かったんじゃないかと。

あるいは48個にして、開会式に(みんなの予想どおりに)AKB48がしゃしゃり出てくるとか。

いやむしろ46個にして46グループ(今は乃木坂と欅坂の2グループだが、2020年までにはもっと増えていそう)を東京五輪のキャンペーンガール的存在として活用するほうが本筋か。48グループは全国各地に(というか海外にも)展開しているのに対して、46グループ(坂道グループ)は今のところ、東京都内の地名だけで展開しているので、東京五輪のイメージキャラとしては後者のほうが適任だろうし。


で、ここからが本題。パラリンピックのほうはシンメトリー(左右対称)になっているのに、オリンピックのほうがそうなっていないのが物凄く気になっていて、というか気持ち悪くて、その一点で「A案はやめてほしい」と個人的には思っていたのだが。

オリンピックのほうもシンメにしようと思えばできるよね? これってわざと左右非対称になるようにデザインしてるよね?

俺にとっては最大の関心事であるその点が、報道ではほぼスルーされているのはなぜ?

しかも調べてみたところ、他の3つの案は左右非対称だったのに対し、A案は「ほぼ左右対称」だったのが決め手のひとつになった、という記事をネット上で見つけて目が点になった。

だったら「ほぼ左右対称」ではなく「きっちり左右対称」の図案にしたほうがいいんじゃないの? デザインした人がなぜ「一見左右対称に見えるけどよく見ると非対称という(気持ち悪い)図案」をわざわざ作り出したのか、その理由がいまだにわからないし、それを選んだ選考委員の選考理由もよくわからない(左右対称のものを選んだとか言ってるし!)。さらに言えば、微妙に左右対称じゃないという「俺的に絶対にダメな部分」について国民の大多数が(SNS等で)スルーしているのも気持ち悪い。

A案がダメな理由として、単色だからとか地味だからとか、目がチカチカするからとか、そういう理由が挙がっているようだけど、そこじゃないでしょ?

みんなはあの「微妙に左右非対称」な図案の気持ち悪さが許せるの?

ネット上で検索してみると、俺と同じ点が気になって、A案のオリンピックのほうの図案を左右対称にデザインし直した人というもいて、その人の提示した修正案のほうが良いのは一目瞭然である。ちなみに「その人」ではなくても、多少デザインの心得のある人が修正したら、たぶん「まったく同じ図案」になると思う。いまのA案を左右対称になるように修正せよ、と言われたときに、上のほうは左右対称なんだけど、下のほうは非対称性が目立つので、上のほうを活かしてマス目の数が45個で、というふうに考えていくと、ほぼユニーク(一意)にイメージされる図案というのがあって、ここではそれを「A’案」と呼ぶことにしよう。

その上で「A案」と「A’案」を二択で選ばせたら、たぶん「A’案」のほうが圧倒的な差をつけて選ばれると思うし、そういう「誰でもすぐに思い付く、より優れた案」があるのにそちらを提示していないという点で、「A案」は俺の中で理解不能であり、「絶対にありえないデザイン」なのである。

ちなみに、B、C、D案との競合(四択)の結果として、「A案のような図案」が選ばれたことに関しては、特に何も言うことはない。他の三つもたいがいなので、消去法で「A案のような図案」になるのは理解できる。でもここで言っているのは、それ以前の問題なのだ。

選考委員会はA案が最終候補になりそうな段階で、A案を作ったデザイナーにA’案を作らせて、まずは「A案vsA’案」の二択で「A’案」のほうを最終候補に残すべきだった。もしそうなっていたならば、俺もA’案(が「A案」として提示されているわけね、その場合は)が選ばれたことについて何の異議も挟まなかっただろう。

追記:上では「A’案」は一意に決まると書いているが、「A''案」というのもほぼ一意に考えられて、そのほうが「A案」や「A’案」よりも優れているように思ったので、ここに書いておく。

「A''案」というのは中心から五方向に対称性を持つ改案である。「A案」の円周上に「つむじ」と称したくなる点がある(二本または三本の線が集まっている点で、A案には六個所ある)。この「つむじ」を円周上に等間隔に五つ配置する。上、右上、左上、下右、下左の五個所である。五方向への対称図形になるので、マス目の数も5の倍数であることが求められるが、ちょうど今のA案では45個で5の倍数になっているので、そこは問題ない。

さてこの「A''案」は、五つの「つむじ」を持つ図形なので、五輪との協調性が感じられる。ばかりでなく、中央の白い抜けが、本当は正円なんだけど、五つの「つむじ」を持つ市松模様で囲まれることによって目の錯覚が生じ、白い抜けが「桜の花弁」の形に見えることが予想されるのである(五角形をほとんど意識していない今の「A案」でもちょっとだけそう見えるのが、その予想の根拠になっている)。

五輪にも絡められるし、日本の花として世界的にイメージされている「桜の花弁」もモチーフにできるし、市松模様のマス目の数は現状の45個でOKだし(なのでパラリンピックのほうの図案を変える必要はない)、良いことづくめのように思われるのだが、なぜこの「A''案」はデザイナーも選考委員会も考慮しなかったのだろうか。

以下は邪推だが、もともとのデザインが「A''案」であり、最終候補に残す段階で商標権の調査をしたら類似の先行例が見つかって、それと被らないようにと選考委員会から忠告され、デザイナーが手を加えた結果が今の「A案」だとしたら、いろいろなことが(マス目の数が5の倍数であることや、誰がどう見たって左右対称のほうが商業デザインとしては優れているのに左右非対称にしたことなどが)腑に落ちるのである。

腑に落ちるからこれが真相だ、という論法はミステリ愛好家の陥りやすいドグマだが、個人的には案外そんな経緯があったんじゃないかと思ってしまうのだった。

2016-02-23

[]名取稚菜の活動期間 00:30

要点を時系列にまとめてみた。以下。

■2010年

 7月24日 名取稚菜が11期生オーディションに合格。

 7月27日 A6th「目撃者」公演初日。

10月10日 11期生がお披露目。

11月16日 前座ガールとして劇場公演に初出演。

12月10日 AKB劇場5周年。

■2011年

■2012年

■2013年

■2014年

■2015年

10月15日 名取稚菜が卒業を発表。

11月13日 新チームAの初日が11月25日から来年2月10日に延期、

       と同時に「約5年半ぶりの新公演になること」が発表される。

12月 8日 AKB劇場10周年。

12月20日 名取稚菜の卒業公演。劇場公演やコンサートへの参加は終了。

       といっても発券済の写メ会券があるので写メ会には参加予定。

■2016年

 2月10日 A7th「M.T.に捧ぐ」公演初日。

       AKB48にとって「目撃者」公演以来5年半ぶりの新公演。

 2月14日 この日の写メ会をもって名取はAKBとしての全活動を終了。

AKB48にとって「目撃者」公演以来5年半ぶりとなる新公演「M.T.に捧ぐ」が今月10日に無事初日を迎えたことは周知の事実だが、その5年半のインターバルは、名取稚菜の活動期間とちょうど重なっている。

AKB48というアイドルグループは、2005年12月に活動をスタートしてから5年の間に、チームAは6個の、チームKは5個の、チームBは3個のオリジナル公演を行っている。さらにAとKのメンバーの混成チームの「ひまわり組」にも2個のオリジナル公演が書かれていて、最初の5年間で16個のオリジナル公演を披露してきた。16番目の新公演となった「目撃者」公演の「初日」も、当時はそこまで特別な日になるとは思われていなかった。

しかし実際にはその日から、17番目の新公演「M.T.に捧ぐ」の「初日」まで、5年半ものインターバルが空いてしまうのである。長い長いインターバルの幕開けとなる「目撃者」公演初日の、その三日前に、名取稚菜はAKBに加入している。逆に言えば、名取がオーディションに合格しAKB48の一員となった(しかし外部へのお披露目はまだだった)三日後に、「目撃者」公演が初日を迎えているのだ。

一方で、AKB劇場にとって5年半ぶりとなった新公演「M.T.に捧ぐ」の「初日」の四日後に、名取稚菜は最後の写メ会を終え、AKB48と完全に縁が切れて一般人に戻ったのである。

要するに名取稚菜の活動期間は、AKB48に「新公演」が書かれなかった5年半と、見事なほど重なっているのである。あくまでも名目上は、5年半というインターバルを間に挟んだどちらの「初日」も、ほんの数日の差でギリギリ、名取はAKB48に所属するメンバーとして接していることになるのだが、実質的には、「目撃者」公演の初日は、名取が研究生としてお披露目をする二ヵ月半も前の出来事だし、「M.T.に捧ぐ」公演の初日は、名取が実質的に活動を終えた卒業公演の一ヵ月半も後の出来事である。自分が加入する前に16番目の新公演が始まり、17番目の新公演が始まったのは自分の卒業後で、自分の活動期間はその間にすっぽりと収まっているというのが、名取にとっての実感であろう。

去年から今年にかけて始動した新体制の四つのチームのうち、チームA以外の三チームは、相変わらず「お下がり公演」(過去に行った公演の再演)を行っており、それらのチームのメンバーにとっては、自分が「新公演」に出ているわけではないのだが、それでも「AKB劇場で5年半ぶりに新公演が行われている」という興奮は共有できているだろう。

名取はAKB48での5年半もの活動期間を、その輪に加わることなく終えたのである。10期生ならば研究生としてのお披露目を済ませた後に「目撃者」公演の初日があり、新公演が始まるときのワクワク感はその時にギリギリ体感しているだろうが、11期生以降にはそれもない。また名取の卒業発表から一ヵ月半ほど後(2016年1月5日)に卒業発表した岩田華怜は、17番目の「新公演」にギリギリ間に合っている(「M.T.に捧ぐ」公演の初日の舞台に立っているのである)。

どちらの「初日」にも関われないまま卒業したメンバーは他にもいるが(同期の森川や川栄もそうだし、後輩にも12期の横田や13期の高島など多数いる)、その中でも活動期間が最長なのが名取である。新公演が書かれなかった5年半を代表する(不遇な)メンバーの代表として、彼女の名前がAKB48の歴史に刻まれることを、せめて望みたい。