市川尚吾の蔵出し

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2006-08-18

[]脱格バッシングの証拠 10:46

1997年6月から2002年4月まで「錦通信」という個人サイトを運営していた。そこで西尾維新や佐藤友哉の作品に対して注文をつけたり批判を展開していたりした時期があった。事情があって当該サイトはその後閉鎖し、ネット上に残るアーカイブからもデータをすべて消去してもらったが、何かまずいことを書いていて、その証拠を隠滅したかのように思われても困る。なので関連しそうな部分をここに再掲しておく。ちなみに脱格系の作品を批判してはいるが、本格ジャンルからの排斥という形では書かれていない(と自分では思っているのだが、実際のところは以下を読んで各自で判断されたい)。

まずは西尾維新『クビキリサイクル』について。日記と書評

■Side-B■

 西尾維新『クビキリサイクル』読了。感想を逸脱していろいろ書いてみた。創作を志す人にはヒントになりそうなことも書いてある(かもしれない)ので、興味のある人は御覧あれ。西尾氏の本が未読でも大丈夫だと思う。

(「日記ぃ・ぽーたー」2002.02.10)

『クビキリサイクル』(西尾維新/講談社ノベルス)

 絶海の孤島、鴉の濡れ羽島。赤神財閥の令嬢が、4人のメイド(三つ子+メイド長)とともに暮らす島。彼女たちの他に、島には7人のゲストが滞在している。ゲスト7人のうち5人は天才である(残り2人は、ぼくも含めて、天才の付き人である)。絵の天才は伊吹かなみ。料理の天才は佐代野弥生。学者の天才は園山赤音。占術の天才は姫菜真姫。そして電子工学の天才が、我が友人、玖渚友。12人しかいない島で、事件は起きた。被害者は首を切られていた。犯人は足跡を残すことなく現場に出入りしたのだろうか。さらに翌朝、またしても首の無い死体が、密室状況下で発見される。誰にも犯行が不可能な状況下でなされた犯罪。名探偵の来島が数日後に予定されているというが、暢気にそれを待っていられない状況になってきた。というわけで、玖渚とぼくも、事件の解決のために尽力するのだが……。

 第23回メフィスト賞受賞作。キーワードは「戯言遣い」。主人公の名前は作中には出てこないが、おそらくは作者のペンネームと同じなのだろう。「NISIOISIN」で回文。そのセンスに同調できずに、何となく「ヤレヤレ」と思って読み始めたのだが、若いわりには知識が豊富で、そういった部分では確かに才能を感じさせるところはある。キャラ作りに関しても、それなりに工夫は凝らされている。でも「キャラ作り」という遊びを楽しんでいる段階で、幼稚と言えば幼稚ではあるんだけど。ミステリ部分は、それだけを抜き出して見れば、骨格は意外と貧弱で、問題としては易しい部類に入ると思うのだが、なるほど、そこがミソなのね、というワンアイデアがあって、あと蛇足部分にしても意外と納得性が高かったり、そういった部分では、印象点はけっこう良かったりする。二十歳でこれだけ書けるというのは、けっこう凄いことだとは思う。

 ただ読んでて乗れない部分があって、前半は我慢しながら読む羽目になった。以下はオレ的に「こうすりゃもっと読んでて(オレは)楽しめるのに」と思った部分。p316に書かれていることからすれば、本人にしても自覚はあるんだろうけど、直す気があるのかどうか。あるなら、以下に具体的なアドバイスを書くので、参考にされたい。若木のうちに余分な枝葉は切り落としてしまいたい。といっても、作者がここを読む確率がどの程度あるのかは疑問だが、まあ、それ以外の人にも参考になるかも、ということで。

●1.疑似体験をすること。

 小説を読んでいるときに、作中世界への臨場感を、読者が感じる場合と感じない場合とがある。小説とは畢竟、作者の抱くイメージを読者に伝える、単なる媒体に過ぎないのだが、テクニックがどうこうと言う以前に、作者が何をイメージしているか、そこでまず勝負が決まる。作者が実写で見たものは、読者にも実写で伝わるし、作者がアニメ絵で見ているものは、読者にもアニメ絵で伝わる。そして読者が臨場感を感じるのは、作者が、これって実体験だっけ、と紛うほど、しっかりとその虚構を疑似体験している場合に限るのだ。今オレはこれを見ている、今オレはこう感じている、というところまで、作中世界を擬似的に「体験」し、没頭しながら書くこと。しかも「描写」すること。それができなければ、いつまで経っても「観念的」と言われるだろう。

●2.登場人物の内面アルゴリズムを安易に説明しない。

 とにかく説明が多すぎる。作者が読者にAという人物の「天才性」を説明するのに、Aが自分のことをまず語り、別な登場人物もAのことを語り、そして主人公が「Aとはこういう(内面アルゴリズムを持った)人なんだ」とモノローグする。しかしそれは逆効果である。説明すればするほど、Aが安っぽく、あるいは薄っぺらく感じられるのである。おそらくこの作者は内面分析が好きなのだろう。しかし分析結果を説明されても、読者は嬉しく感じない。対象が自分の見知っている人ならばともかく、そもそもそれは作者の創造物ではないか。それをその作者が分析してしまっては、読者はあと、何を楽しめばいいのか。「説明」をするのではなく、作者は、その登場人物のインプットとアウトプットを「描写」するだけでいいのだ。その描写から、読者はそのキャラの人物像を組み立てる。その際に使われる材料は、読者の経験である。こう言われてこう返すのは、こんな人物だろう。そういうふうに読者が最終的に(自分の経験をもとに)組み立てたキャラは、読者にとって存在感を持つ。人間が描けている、キャラが厚みを持つ、というのは、そういうテクニックによって生まれるのである。百の説明よりひとつの(気の利いた)描写の方が雄弁だったりする場合がある。的確な描写を考えるのが小説書きの醍醐味。どんな入力/出力のセットが、この人のキャラを一発でわからすことができるか。そういう部分でこそ、工夫を凝らして見せてほしい。

●3.インフレルールとリアリティの兼ね合い。

 少年ジャンプ的なインフレルールの導入は、リアリティを損なう。アドバイス1とも重なる部分があるのだが、読者に「リアルな体験」を供与するためには、リアリティへの配慮が絶対に必要だ。現実からの解離度が大きければ大きいほど、読者は醒めてしまう。テラという単位や車への追突といった、つまらない部分で、安易にインフレ現象を見せて読者を興醒めさせているのは、やっぱりどうかと思う。たとえば友達が「昨日身長5メートルの人に会ったんだけどさー」などと話し始めたら、身を入れて聞く気にはならないでしょ。せいぜい、さあ冗談を聞くぞ、という心構えしか生じない。小説というのは「見てきたような嘘をつく」ところに醍醐味がある。嘘を嘘と感じさせないテクニックが必要で、だからやっぱり作者が安易に「天才」などと書いてはいけないのである。それは作者が決めることではない。決めても、読者が認めなければ意味がない。興醒めするだけだ。作者はただ、その人のインプットとアウトプットを描写するだけに留める。それで、読者がそこに「天才」性を感じる、というふうに、持って行かなければ。

●4.その他

 クライマックスシーンでの、短いモノローグの羅列など、テクニックとして安易な、凡庸な、そして陳腐なものが散見される。映画で言えば、爆破シーンになった途端に画がスローモーションになるような。またその手か、とウンザリしてしまう。主人公が「戯言」を遣う部分にしても、作者が楽しんでいるほどには、読者は楽しんでいないと思う。エンターテインメント小説(=読者をもてなす小説)という意味では、優先順位が間違っている。そうした倒錯が許されるのは、観念的な部分で、本当にすごいことを言っている人の場合だけである。その場合には、結果的に読者ももてなされるので、結果オーライになるのである。そうできる自信があるのなら続けてもいいとは思うが、自信がなければ止めて、読者をもてなすことを第一義に、言葉を操ってほしいところである。

(「このいちマンスリー」2002.02.10)

続いて佐藤友哉『水没ピアノ』について。日記と書評

■Side-B■

 佐藤友哉『水没ピアノ』読了。良い部分もあるけど基本がダメすぎ。

 主人公が一人しかいないシーンは、書き手によっぽどの力量がない限りは、なるべく避けるべきである。芸人だってピンで舞台に立つのを嫌がる。演劇でも一人芝居は最高難度とされている。相手役との絡みナシで場をもたせるのは難しい。そのあたりで工夫がなさすぎ。だから文章を読むのが苦痛と感じられる。エンタテインメントになっていない。

 この作家は、観客席が見えていないのではないか。大勢の読者が自分の書いたものを読むということを、ちゃんと認識していないのではないか。そんなふうにさえ思ってしまう。観客さえいなければ、ピンで漫談をするのも、一人芝居をするのも、別に平気なのである。しかし大勢の観客を前にした途端、それらは急に難しくなる。同様に、大勢の読者をもてなそうという意識があれば、主人公がピンではここはちょっとつらいな、このシーンは削ろう、というふうに計算が働いて、無駄なシーンがカットされる、それでエンターテインメントとしてより良い作品が出来上る。できればそういう方向に持っていってもらいたいのだが。

 でもまあ、小栗虫太郎を読むよりは我慢を強いられないし、書き手のイタさだって太宰治よりはマシと、そう思えば大したことではない。

 オレがより問題と感じるのはリアリティのなさで、詳しくは side-Cを参照のこと。

■Side-C■

 小説家は尤もらしい嘘をつくのが商売である。尤もらしくない嘘なら、誰だってつける。自分のついた嘘を、どれだけ尤もらしく見せることができるのかが、要するにプロの技術というやつで、それがヘナチョコだと、(大人の)読み手が萎えてしまう。乗れない。面白いと思う気持ちが割引されてしまう。これは書き手の側にとっても損である。

 ところが、本格ミステリの書き手、あるいはその周辺で、そういった、嘘を尤もらしく見せる技術のレベルが、ここのところ低下しつつあるように思われて、それはジャンルにとっては容易に看過できない、それこそ大問題ではないかと、個人的には思っているのである。

 たとえば佐野洋も『推理日記』の中で、自宅の庭にゴルフコースがある、という設定を書いてしまった作家の作品を取り上げて、それがいかに非常識な設定なのかを、理詰めでこんこんと説明していたが、実際にちょっと想像をたくましくしてみれば、あるいはちょっと調べてみれば、書き手の側だって、あ、これはおかしいなと、気づくことができるはずなのである。

 佐藤友哉で言えば、たとえば『エナメルを塗った魂の比重』には、シャッターを開けたら中が冷凍庫になっている、という倉庫が出てきたけど、シャッター1枚でそんなふうになってたらおかしいでしょ。熱効率の点でも問題があるし、シャッターの表面だって、そんなんじゃあ凍っちゃったりするでしょう。通りがかった人にも、ここはいったい何なんだと興味を持たれて、それは倉庫の持ち主の望むところではないはず。断熱用の内扉を1枚用意すればいいだけの話なのに、それだけの想像力が何で持てないのか。

 腕の動脈が切れたら、1分間にどれだけの量の血が流出するか。人体に何リットルの血液があり、そのうちの何リットルが失われたら昏倒するか。ちょっと調べてみればすぐにわかること。いや、調べなくてもある程度の想像はつくはず。マトモな想像力がありさえすれば。

 これだけの文章を手書きで書くのに、どの程度の時間がかかるか。切迫した状況下で、手書きで文章を書かなければならないとなったときに、こんな無駄の多い文章を書くヤツなんて、どう考えたっていねーだろうが。

 そういった問題は佐藤友哉だけじゃなくて、思いつくままに挙げてみれば、たとえば霧舎巧にも、あるいは門前典之にも見られるし、他にも大なり小なり、そういった問題を抱えている書き手というのは、実際に数え上げてみれば、たぶんかなりの数に上ると思われる。

 物理に関して考えが甘い人(倉知淳とか)。人体に関して考えが甘い人(門前典之とか)。建築に関して考えが甘い人(霧舎巧とか)。心理に関して考えが甘い人(黒田研二とか)。さらに経済に関しては、考えの甘い人というのが、けっこう大勢いると思う。建物の維持費とか施設の採算性とかといったあたり。そういう部分でアラが見えてしまうと、ミステリ部分がどんだけ面白かろうが、その作家は、自分の中で、どうしてもB級にランクせざるを得ない。

 さらに言えば、清涼院流水や西尾維新といったあたりの書き手については、尤もらしい嘘をつこうという意識が、はなから欠如しているかのようだ。

 若い書き手がどんどんデビューするというのは、ジャンルにとっても良いことだと思うし、読者の側にしてみても、新鮮なアイデアを持った新しい書き手の作品を歓迎する風潮はあるだろう。しかしプロとしてデビューするためには、クリアしていなければならないハードルというのがあるはずで、どうもそれが最近、上に述べたような点に関しては、下がってきているような気がするのだ。

 ハードルを下げるのは、ジャンルにとって、あまり良いことではないと思う。しかしせっかくのジャンルの隆盛に水を差すようなこともあまりしたくない。これはひとえに書き手の側の意識にかかっている問題だと思う。甘い考えを自分で戒めること。B級でもデビューできる/本が出せる状況が、目の前にたとえあったとしても、それに流されることなく、あくまでもA級の書き手を目指すこと。想像力を磨いて、あるいは調べ物をする癖をつけて、より尤もらしい嘘をつく技術を磨くこと。それらを、プロ/アマを問わず、若手の書き手には期待したいところである。

(「日記ぃ・ぽーたー」2002.03.10)

『水没ピアノ』(佐藤友哉/講談社ノベルス)

 友達が一人もいなくて彼女も失ったばかり、メル友「紘子」とのメールのやりとりだけが生き甲斐という、ひきこもり気味のアルバイター。勤め先の研究所で脳をいじられた妹が、家族を家の中に監禁し、次々と殺していくのを、ただ黙って見ているしかない星野朋郎。クラスメイトの伽耶子を、運命の酷い仕打ちから護ろうとする、小学四年生のコウちゃん。北海道の片田舎、島松の地を舞台に、被害者たち三者三様の物語が繰り広げられる。アルバイターの前に現れる鏡創士という高校生。星野家で起きた密室内での事件。コウちゃんの前に現れた黒服。希望は踏みにじられ、失意は膨れ上がり、そして意味もなく死体だけが累積する。苛酷な運命が、三人の主人公をどんどん追い込んでゆく。三人をダメにしてゆく。そして三つの物語が交錯したとき、構図は逆転し、被害者は加害者に反転する……。

 副題は「鏡創士がひきもどす犯罪」。鏡家のシリーズ第3話である。前2作はそうでもなかったのだが、これは読むのが苦痛だった。アルバイターのパートは、一人称の語り手がどうでもいいことをダラダラと垂れ流しているだけ。ネット上の個人サイトの日記とかで、こんな文章を垂れ流しにしている所があったら、二度と読みに行かないと思う。自慰的な文章。そんなものを、ブンガク作品の中でならばともかく、娯楽小説の中で、どうして読まされなきゃならない。派手な事件が起きている他のパートだって、設定が御都合主義すぎて全く乗れない。ありえないにもほどがある。世の中の仕組みを知らないガキならばともかく、大人にはちょっとこれは読めないでしょう。訪問客はないのか。郵便配達は。回覧板は。血がそれだけ出たら貧血で失神昏倒するに決まってる。実際に自分で地面に穴を掘ってみろ。いや、実際にやってみなくても、マトモな想像力さえあれば、自分がどれだけ無茶なことを書いているかわかるでしょう。もうダメダメ。と思って読んでいたのだが、終盤になって、やりたかったことが見えた段階で、最低ランクだった評価も少し上がる。でもなあ。

(「このいちマンスリー」2002.03.10)

『水没ピアノ』読了三日後の日記。読了当日の話題を継続。

■Side-C■

 先週の3月10日の日記コラムに書いた「本格ミステリにおけるリアリティとアラの問題」(というよりは「嘘を尤もらしく見せる技術の問題」と言った方が、より語弊がないのだが)については、過去にも似たようなことを書いた憶えがあって、調べてみたら99年31週8月3日の日記にそういうことを書いていた。興味がある人はそっちも見てやってください。同週には妙なパズルとかもあります。

 えーと、一昨々日の話をここで補足しておくと、オレが読んでて引っかかった部分(アラ)にしても、他の人は大して気にせず、流して読めてしまう、それどころかアラと気づきもしなかった、ということだって当然あるだろうし、逆に他の人が引っかかっているのに、オレ的にはぜんぜん気にならなかった、引っかからずに読めてしまった、という部分も当然あるだろうとは思う。読者の持つ常識がそれぞれで違っている以上、そういった差異やレベルのバラつきといったものは、どうしても否めないものとして存在しているはずで、先日具体的に例示してみせたのはそういう中で、たまたまオレが引っかかった部分でしかなく、だから問題の本質は個々の例にあるのではない。

 ともあれ、作者側にしてみれば、潰せるアラは潰しといて損はないはずで、そうすることによって「このレベルなら読める」というふうに、より多くの読者を獲得することもできるだろうし、それ以前に作品自体の価値(品質)だって上がるわけで、結果がそんなふうに良いことづくめであるならば、じゃあなぜそうしないのか──なぜオレごときが気づく程度のアラを、作者が気づかずにいるのか、いられるのか──という部分を、オレは問題にしていたわけだ。

 今の読者はそういうアラに気づかない、あるいは気づいてもわりと寛容だったりする、だから作品にアラが残っていても商品として流通するのに何ら問題はない、という状況がもし仮に目の前にあったとしても、そういう甘い意識のもとに生み出された自作は結局はB級でしかない、という自覚は、せめて持っていてもらいたいと思うのである。厳しいチェックをパスしたA級の作品と比べた場合には、そこに歴然とした差が見出せる。あなたはA級の作品を書きたくはないですか。B級でいいのですか。ミステリ史に名を残すようなA級の作品を書きたいとは思わないのですか。そのためにも、もっと自作に厳しい目を向けようよ、自分でアラに気づこうよ、レベルを上げようよ、大人になろうよ、という書き手側への呼び掛けであり、そして同時に、もっと目を肥やそうよ、世の中の仕組みを知ろうよ、そうしてチェックをもっと厳しくしようよ、という読み手側への呼び掛けでもあったわけだ、一昨々日のコラムにあれを書いたことの意義は(<悪文だ)。

 潰せるアラも潰さずに、A級になるべき作品をB級として発表している作者を、読者があんまり甘やかしていてはいけないと思う。オレからすれば、作者というのは常に、読者を高みから見下ろす存在であってほしい。作品を読んで、できれば「ああ、作者はこんなことまで考えていたのか」と感心したいじゃないですか。それが「ああ、作者はこんなことすらも考えていなかったのか」とガッカリさせられるんじゃ、読書の楽しみもそこで何割か減じてしまう。そうならないために、オレ自身が感覚を鈍磨にして、アラに気づいても気づかないふりをする、という手段もあるだろうが、そうじゃなく、自分はそのままで、作者にもっと高い位置に上ってほしいと願うのは、人情として当然だと思うんだけどなあ。

 いやしくもプロを名乗る書き手が、オレごときに見下されるようなレベルの存在であっては困る。というのがオレの中の線引きで、オレ自身は歳を重ねるごとに、どんどん世の中の仕組みとかを知っていくので、そのぶん、どんどんとボーダーラインが上がっていく、点がカラくなっていくのは、ある意味でしょうがないことか。篩の目をどんどん粗くしていっているようなもの。

 しかしそうして、自分の目線を高くすることによって、初めて見えてくるものというのがある。いつまで経っても篩い落とされない作品というのがけっこうあるのだ。これだけの数の作品が、リアリティに気を配って書かれていたのか。これだけの数の作品が、尤もらしい嘘をつくために、あちこち気を配って書かれていたのか。そうなったときに初めて、B級の作品に含まれている各種のアラが、ことさら目に障るようになってしまうのかもしれない。

 うーん、これってやっぱり、年寄りの繰り言なのかなあ。

(「日記ぃ・ぽーたー」2002.03.10)

上掲の日記中で触れられていた99年の日記。

 ここのところ本も読めてないし、特筆すべき出来事もない(そもそも部屋からほとんど出てないし)。パズルもネタ切れだし。というわけで、この日記も、そうした日には身辺雑記ではなく、思ったことをつらつらと書いていこうかなと。

 で、今日のテーマは「本格ミステリにおけるリアリティ」。

   *

 ミステリにおいて、「本格度」と「リアリティ度」は反比例の傾向にある。言い替えれば、「本格度」が増すと、どうしても話が作り物めいて見えてしまう、ということかな。

 たとえば謎解きに論理性を求める場合。そのためには、謎を解くのに必要な手掛りが、すべて主人公の前に与えられなければならないのだが、現実にはそうそううまく事が運ぶことはまずないでしょう、という点で、その作り物っぽさが露呈してしまう。逆に(現実との親和性という意味での)リアリティを追求すれば、それが枷となって、ミステリの「本格度」は下がってしまうだろう。

 で、本格嫌いの人というのは結局、その作り物めいた部分、嘘っぽさが、嫌いなのではないかと、こっちは想像する(清涼院流水が──本格かどうかは別として──そういった場合に槍玉にあがる作品の極北に位置する)。逆に本格好きの人の中には、リアリティのある作品を毛嫌いする人もいる(こちらの槍玉にあがるのは、いわゆる社会派の作品か)。現実逃避としてミステリを読んでいるのに、ホステス殺しとか、靴を磨り減らす刑事とか、あまりにも現実っぽいことが描かれているがゆえに、そういうのは嫌だとなる。

 こっちの場合は読者として、かなり「本格好み」の側に偏った立場に立っていると思う。しかしだからといって、「リアリティ度」はどうでも良いと思っているわけではない。むしろそうした傾向を持つ人間にしては珍しいくらいに、「リアリティ度」を気にするし、そうした点において細かくチェックを入れるタイプだと、そう自分で自分のことを思っている。作中に怪しげな館が出てくれば、どうやって建てるかとか、維持費はどのくらいかとか、そういったことをいちいちチェックして、イイカゲンに設計されていると判断したものに対しては、「リアリティ度」の採点でビシバシ減点する。

 ただしボーダーラインは低いのね。実際に数値として採点しているわけではないんだけど、イメージとして、たとえば10点満点で、本格嫌いな人の足切りラインが7点とか8点だったとすると、こっちはギリギリ2点まで許しちゃおう、みたいなスタンスを取っている。

 許しちゃうんだけど、でも、と思う。その「リアリティ度」における減点が、「本格度」との兼ね合いで、必定ならば仕方がない。そういうケースがあるからこそ、こっちのボーダーラインは低めに設定されているともいえる。「本格度」が増した分、どうしても減点されてしまう分があって、それで「リアリティ度」が下がっても、その条件下であたうる限りの最高点が出せているものに関しては、何の問題もないのだ。しかしそうでない作品に関しては、許せるにしても、不満は残らざるを得ない。「本格度」はこのままで、でもここをこう工夫すれば、今よりもっと「リアリティ度」が上がるのに、と思わせる作品は、許容範囲なんだけど、でもなあと思ってしまうのだ。

 ひところの本格ムーヴメントにおいて(特に創元系の作家の功績によって)、本格度とリアリティ度のそうした兼ね合いのハードルが、以前よりも高くなったように思う。この「本格度」でなら、この「リアリティ度」は満点でないにせよ、これが最高点だろう、というふうに満足できる作品が多く書かれて、それで読者の求める水準も上がった。こちらも含めて、読者の目が肥えてしまった。

 だから、これから本格ミステリを書いて作家を目指そうという人は、まずはそうした現状認識を持たなければならないと思う。「本格度」がまず第一の勝負ポイントであるにせよ、その条件下でいかに「リアリティ度」の得点をより多く上げるかが、最終的な勝負のポイントに、現在ではなってしまっているからである。

(「日記ぃ・ぽーたー」1999.08.03)

『水没ピアノ』読了四日後の日記。読了当日の話題をさらに継続。

■Side-C■

 リアリティとアラの話をさらに補足。

 BSマンガ夜話で「青の6号」が取り上げられたとき、このマンガでは悪の結社が理に適った行動をとっている、ちゃんと冒したリスクにペイするだけの犯罪になっている、という部分が評価されていたが、それと、乱歩の少年探偵団シリーズで、怪人二十面相の行動が理に適っていない、ハイリスクローリターンでぜんぜんペイしていない、あれはだから趣味でやってるんだ、みたいなツッコミを入れられていることとを、ここで比較してみるのも一興かと。

 マンガと小説では比較しづらいので、ここで「巨人の星」を持ち出すことにする。ガキのころは純粋に読んでて楽しかったが、大人になって読み返すと、何で花形がスポーツカーを運転してるんだ、とか、つまらないところ(本筋の野球ドラマとは無関係なところ)で、ツッコミどころがある、まあそれが楽しいんだけど、そういうふうに読まれるのは、原作者の本意ではなかったはずだと思われる。

 ただ、作者本人がその気なら仕方がない。西尾維新にとって、人が車に追突したと書けば読者にツッコミを入れてもらえる、それがおそらく本意なのだろうから仕方がない。清涼院流水にしても、「真犯人は****でした」と書いて、読者からツッコミを入れられるのもたぶん計算のうちなのだから、それはそれでしょうがない。そういうところにわざわざツッコミを入れるのも野暮な話で、結局それらは「そういうもの」だと割り切って楽しむか、それができなければ読むのをやめるか、どちらかにしろ、早いとこ見切りをつけないといけなくて、それができない読者だけがブツブツ言っている。それがオレなのだ。

 まあオレは、何だかんだとブツブツ文句を言いつつも、それらを一方で楽しんでいるようなところもあるので、あまりに苛ついた挙句、健康を損ねるとか、本を壁に投げ付けて内装を破損し、大家さんに弁償しなければならなくなった、というようなことはないので、ぜんぜん大丈夫。

 そういった、作者もわかっていて敢えてやっている部分については、気にする方が野暮である。あるいはそうではなくて、作者が天然でボケている場合でも、作風によっては許せてしまう、なんてこともある。ユーモアミステリならけっこう許せる、みたいな感じで。そういうふうに、オレだって寛大な(?)読み方をすることも多いのよ。

 ただ、けっこうシリアスな作風で、だからこっちも本気で読んでいたら、どうも引っかかるところがあって、何の意味があるんだろうと訝しく思いつつ、最後まで読んでみたら、結局そこは、作者があまり考えていなかったので、そうなってしまっただけなのでした、というのでは、ミステリ部分でかなり楽しめたとしても、いや、そういう作品であれば尚更、思う存分に楽しめたとはいえなくなってしまって、ああ勿体ない、何でもうちょっとそこを突き詰めて考えてくれなかったのよ、というふうになって、オレからすれば明らかに、そこをこう直した方が、作品としての価値は上がるように思えるんだけど。

 っていうのは、やっぱり価値観の押しつけになっているのだろうか。作者はどう思っているんだろう。オレが言う「そこ」を突き詰めて考えて、で、アラをなくした修正版というようなものを想定した場合、それと、今ある作品とを比べた結果、やっぱり今ある作品の方に軍配が上がると思っているのだろうか。ちょっと聞いてみたい気がする。いや、別に作者に限った話ではない。たとえば『水没ピアノ』を読んだ人に、オレがツッコミを入れた部分が修正された版というものを想定してもらって、それと、今ある版とを比較して、どっちがより良いと思うか、確かめてみたいんだけど。うーん、でもきっと、どっちでも良いって言うんだろうな。アラが気にならないということは、そこがどうなっていても結局大した違いはない、と思っているわけで。

 修正版を想定する、という話が出てきたところで、ちょっと補足しておくと、ツッコミが下手だと、その修正版がイメージできない場合があるように思う。要するに「ここをこう直せば良い」という具体性のあるツッコミなら良いんだけど、ただ単に「ここが変だよ」と言うだけのツッコミの場合、それが、そこを直すと他にも影響が出るし、えーと、みたいな、ちょっと難しい、あるいは話の根幹に関わるようなツッコミポイントだった場合には、作者にしても修正版のイメージが持てなくて、そこで比較が行われず、結局、今ある作品がどうしても最良のものとして、作者の中で居座ってしまうことが考えられる。

 逆にツッコミ方に具体性があれば、作者が「しまったー」と思ったり、あるいは他の読者にしても「ああそうか、オレはこれで満足してたけど、確かに言われてみれば、そう直した方が良いよなあ」と納得できたり、そんな場合があるはずで、そうなれば、アラにツッコミを入れた側にしても、そうするだけの意義があったというふうになるわけで、ならば、できればオレも、これからはそういうふうにツッコミを入れていきたいと、今回の一連の思索を通して、そんなことを思ったのであった。マル。

(「日記ぃ・ぽーたー」2002.03.14)

ちなみに佐藤友哉の小説中にこんな一節があった。

(略)リアルを表現するために書いた嘘の部分を指摘して喜ぶウスバカ同業者の意見を鵜呑みにしても構わない(僕の知る限りだが、地面に穴を掘って身を潜める登場人物を最初に書いたのは村上春樹だ)。

(佐藤友哉「クリスマス・テロル」講談社ノベルス版p.40)

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