市川尚吾の蔵出し

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2006-09-06

[]投票者選びの責任について 08:29

過去に「錦通信」で長期にわたって考えたことがあった。以下に引用する。

■Side-C■

 私信1:定吉七番シリーズは講談社文庫版もあるのだ。そっちの方が探しやすいかも。

 私信2:私もタイミング的にそう思っていたのでした(笑)。

 さて本題。11月は原書房の回し者、ってわけでもないんだけど。

 本格ミステリベスト10関係、とりあえず投票者として、今年刊行された本格ミステリの山の中から、5作品選ばなければならない。悩んだ末に作品は絞ってみた。しかしコメント書きがまだ。未読もたくさん残してるんだよなあ。

 同ベスト本は、発行元が東京創元社のころから、投票者を前年版から継承しつつ、徐々に増員も行って来たのだが(オレも途中から増員されたクチ)、今年はネット上の本格新刊読みから、ある程度まとまった数の増員を図ることとなった。とりあえず10人ほどに声が掛けられたのではないか?

 以前からの投票者の中には「ほとんど新刊を読んでいないんだけど」などとコメントしている人とかもいて、そういうのを見るにつけ、ネット上のあの人とかこの人とか、もっと適材は他にいくらでもあるだろうに、と思っていたのだが、それがようやく見直されたようで、とりあえず喜ばしいことではあると思う。

 だけどよくよく考えてみると、投票者を取捨選択するということは、それでランキングもある程度までは操作できてしまうわけで、たとえば(これは極端な例だが)ある作品をランクインさせたいと思ったときに、その作品に投票しそうな人間(そのサイトの読書感想文とかを読めばだいたいわかる)に狙いを絞って声を掛けるとか、そういったことも、しようと思えば出来てしまうわけで。

 いちおう基準は、ネット上で本格系の新刊をよく読んでいる(ように見える)人、ということで今回、声を掛ける人を選んだわけで、市川も微力ながら参考意見(こんな人がいますよ、こんな書評ページがあるけどどうですか、みたいなこと)は出したものの、それは自分がよく見に行くサイトが母集団であることから、どこまで公平性が保たれていることやら、そこで疑問を抱いてしまえば泥沼にはまるとわかっていながら、どうしてもそのあたりのことは考えてしまわざるを得ない。

 原書房の担当者にしても、たぶん事情は似たようなもので、自社作品の感想をネット上で検索して、ああこんなサイトがあるんだ、みたいなことで、書評サイトに関する知識は作られているはずで、そこから今回の増員を選べば、自社作品にわずかに有利になってしまうかもしれない、ということは考えていたはず。

 ただそうやって考えていくと、そもそも版元が東京創元社だった時代からして、はたして公平性が保たれていたかと言われれば、わずかに版元に有利な投票者選びがなされていたと言えなくもないわけで。東京創元社の場合、プロの作家・書評家以外だと、創元三賞への応募者などを中心に、投票者を募っていたわけで──といってもまあ、誤差の範囲だとは思うのだが。というか東京創元社、国内本格の持ち玉が少なすぎ(笑)。先日の『赤ちゃんをさがせ』を読んだとき、「クイーンの13」の刊行ペースの遅さ(というか気の長さ)に改めて気づいて、つい笑ってしまったのだった。そういえば『スタジアム 虹の事件簿』の扱いはどうなるのだろう?

 閑話休題。原書房のサイト内にある、ネット上の読者からのフリー投票を募って本誌とは別にランキングを出してみよう、という試みも、だからそういった、版元側から投票者を選ぶことによって、ランキングにある種の偏りが生じてはまずい、だったらフリー投票も同時に企画して、その結果も並べて公表してみよう、というような、いわば対照実験的な意味も持った企画だと、こっちは考えているのだが。

 というわけで、今回版元から声の掛からなかったネット上のミステリ読者は、原書房のサイトのフリー投票に積極的に参加してくれると、編者(探偵小説研究会)のひとりという立場から言えば、嬉しかったりするのだった。両方のランキングを並べたときに公平性のある結果がそこに表れるように。そして原書房に、こういう読者もいるんだぜ、と自分のことをアピールしとけば、来年版では、今度は本誌の投票者に、というふうに話が来たりするかも。

 たとえば「 JUNK LAND」でやっている年間の本格ベストだって、投票者はサイトの訪問者が母集団になってるわけで、中には「普段は訪れていないけどベスト選びと聞いて投票に来た」という人もいるだろうけど、そういう人ばかりではないことは明らかで、ということは、つまり MAQさんの本格観に親近感を覚える人、というバイアスがかかっていると言えなくもないわけで。

 ジャンクの本格ベストと、原書房の本格ベスト(サイトにおけるフリー投票のものと、本誌で集計されたものと、今年は2種類存在する)で、もし同じような結果が出るならば、そのランキングは本格読みの総意の集約であると言うことができるだろう。個人的には、そうなっていてほしいと思う。ランキングを出すならば、それは中立公平なものでなくてはならない。

 というか、個人的にはそもそも、集計した結果の順位よりも、個々の投票内容に注意を向けて、この投票者の好みはオレに近いなあ、じゃあこの人が薦めているこの作品をちょっくら読んでみるか、みたいな読み方をするのが、この手のベスト本の活用としては正しいように思うのだが、ひとたびランキングが出てしまえば、それがひとり歩きしてしまうのもまた事実なわけで。だったら公平なものが一本あれば良い。

 そのためにも、個々の本格読者は、サイレントマジョリティに徹するのではなく、各自が自己主張を行うべきである。公平性もそこから生まれるのだし。というわけで、まずは原書房のサイトへゴーだ。めんどくさいからリンク張ってないけど。「ミステリー・リーグ」ってとこから入って行くと、投票ページがあるから。んじゃよろしく。

(「日記ぃ・ぽーたー」2001.11.02)

■Side-C■

 ぶこうさんの日記を読んで:

●11月12日の日記について。

 プロの本読みと素人読者では作品の読み方が違う、という部分が気になる。やっぱり現状、違うのかなあ、違っているとしても、線のひき方は「プロ/素人」でいいのかなあ、というのが、日記を読んで私がまずひとつ思ったところ。

 そして、ぶこうさんの感じているという、その違いが、いったい何に起因するものなのか、というところも、私としてはすごく気になるのだ。単に分母(読んでいる数)の違いなのか、それとも嗜好の違いなのか。分母が違うだけならば、一般的には、より多くの本を読んでいる人の選んだベストは、分母の少ない人の参考になるのではないかと思うのだが。だったら分母の大きい人だけを集めればいいという話になるだろうし。そうじゃない、嗜好の違いについて思慮すべきだというんだったら、それは言い出したらキリがないしなあ(完全に嗜好が重なる人なんていないという意味で)。

 ぶこうさんの意見はたぶん、ネットと紙媒体と、両方のランキングを見れる人のものであって、でも「商業誌しか目に入らない人たち」がいる、ならばその「商業誌」を現状よりも良くしていこう、と考えたときに、本格ミステリを多く読んでいる人たちに助力を願うのは、筋の通った行いではないでしょうか。

 別に「このランキング以外は見るな」と言っているわけではないのだ。というよりも私は「ランキングよりも個々のデータを活用してね」と言いたい。言っている。でも私がここでいくら書いても、本格ベスト10のランキングがひとり歩きをするのを止められるものではない。一部の書店の棚には順位どおりに本が並べられるのだろうし、そのために出版社で増刷がかかったりする。それはぜんぜん悪いことではないと思うけど、ランク外の作品も、内容的にそれほど差があるわけじゃないのに、扱いには格差があって、それでいいの? というところはあって、それは問題視できるだろうとは思うわけで(対して、ネット上の各種ランキングの結果は、今のところ、そういった影響力は持っていないじゃないですか。これからはわかりませんが)。だから本格ベスト10というムックは、現状では、本格関係の各種ランキングの中でも特別なものとして、私は扱うべきだと思うし、であればこそ、そのランキングが、なるべく公正なもの、なるべく大勢の人間が納得できるものであってほしいと、そう願うわけです。

 そのために、ネット上から、分母の大きそうな人を選んで、投票に参加してもらうことは、私は悪いことじゃないと思うのですが。

 本格ベスト10は新規の投票者を得て良くなる(と私は思っている)。その他のネット上のランキングは従来どおり。ならばどこが悪いのか。ぶこうさんがどこに文句をつけているのか、私にはちょっとわからないのでした。

 ちなみに、以上は私の個人的な意見であって、探偵小説研究会の総意でないのはもちろんのことです(次項以降も同様)。

●11月14日の日記について。

 付き合っていた女の子から「あなたを見切る」と言われた時のショックを思い出してしまった。私が見切られるという話でもないし、付き合っている女の子でもないし。でも「見切る」という言葉は、かなりきつい。見切られる側よりも、見切る側のつらさというのがあって、それが相手にも伝わるから、だから普段は言わない言葉だと私は思う。

 それをぶこうさんに言わせるだけの、つまりその重い言葉と釣り合いがとれるほどの問題点が、本格ミステリの復権運動にはあるのか。というわけで、心して読みました。

 ぶこうさんが挙げている活動のうち、鮎哲賞、本格ベスト10、本格系の雑誌については、商業ベースでの試みであって、成功すれば続くし、失敗すればなくなる。作家とその周辺の人たちだけでできることではないと思いますし、だからそれは、コンプレックスの裏返しとかということではないと思います。単に商売上の要請というか。だから読者がついてこないとすぐにポシャる。出版社が道楽でやってることではない。ターゲットをより絞ることで、他の商品との差別化をはかり、生き残りに賭ける。そういう普通の商活動の一環だと思います。もちろん、編集者は本格ミステリが好きでやっている、というところはあって、それは忘れてはいけない。だから質的にも良く、読者がついてきていて、商業ベースで成立している、というところはあると思います。

 それに対して、本格ミステリ大賞(およびそれを選ぶための母体である、本格ミステリ作家クラブ=HMCの設立)は、ハッキリ「本格ミステリ系の作家・その周辺の人達」の行いであると思います。つまり問題はそのあたり。

 本格ミステリには、特有のモノサシがないと評価し難い、というような側面があると思います。通常の小説とは、面白さの質が違うというか。

 それを、既存の賞である推理作家協会賞では、本格ミステリばかりでなく、ハードボイルドも冒険小説も(時としてSFも)全てひっくるめて評価するというところに、問題がある──いや、それはそれでいいと思うんだけど、でも賞がそれだけしか無いというのは、本格作品にとってみたら、不充分だとは思いませんか?

 私は、本格というジャンルが、ジャンルとして成熟した、だからミステリという大きな母体から(この母体の側が、ほとんどエンタテインメントと同義になってしまったから、という理由もあって)独立する、という自然の流れの中での、それはひとつの現れだと思っています。かつてSF(空想科学小説)が、探偵小説の中のサブジャンルとして扱われていたのが、今では独立してひとつのジャンルとして成り立っている、というのと同じ意味で。SFというジャンルが自前の賞として「SF大賞」とかを選ぶことについて、文句をつけようとは思わないのと同じ意味で、本格ミステリというジャンルが「本格ミステリ大賞」を持つことには、特に問題はないと思うのですが。

 ただし「馴れ合いで内輪の作品を持ち上げて」みたいなふうになってはいけない、という指摘は、正しいと思います。

●11月16日の日記について。

 瀬戸川猛資は「ゲームでなくては面白くないと主張するのは(中略)古めかしく、みすぼらしい」と書いているのであって、ミステリのゲーム性を軽蔑しているわけではない。むしろ(本格ミステリを「先発完投型」のピッチャーになぞらえているくらいだから)擁護する立場にあるのではないか。少なくとも本格ミステリを貶してはいない。瀬戸川が貶している(というか諭している)のは、本格ミステリ以外を、本格ミステリじゃないからというだけの理由で「面白くない」と決めつけている、狭量な読者をじゃないですか。

 別に私は瀬戸川猛資を擁護する立場にはないのですが、ぶこうさんの攻撃が、それでは自爆してるだけじゃん、と思ったので、ちょいとツッコませていただいたのでした。

●11月17日の日記について。

 本格ベスト10を、マーケティングの一環として徹底する、そのために投票者の年齢性別などのデータを載せ、個別の集計結果を出してゆく、というのも、ひとつの方向性ではあると思います。たしかjmaiでは、そういうデータも出してますよね。もしそういう声が大きければ、当該雑誌がそうなっていく可能性はあると思います。

 ただ、ぶこうさんが望むような形を、逆に煩わしいと感じる読者だっていると思います。えーと、私個人の意見を言わせてもらえば、ぶこうさんの改案よりも現状の方が好みかな、と思ってしまいます。

 現状に対する改善案は、いろいろとあると思います。私は、個々の投票者が何を読んでいて何を読んでいないか、というデータがあればいいな、と思います。ついでに言えば、5作品しか投票できない、という点についても、けっこう不便を感じていたりします。6位以下を十把ひとからげで0点にしているわけで、これは心苦しい。極端な話を言えば、その年に読んだ全作品に点数をつけて投票する、という形式ならば、そういう思いはしなくて済むのに、と思います。たしか「SRの会」で行っているアンケートは、その方式ですよね。ついでに個々の作品に対するコメントも載せて……って、それってオレがこのサイトでやってることじゃん(点数はつけてないけど)。

 紙媒体で(商業誌で)どこまでやるか、というのは、考えなければならないいろいろな要件があって、現状ではあの形になっている、そのはずです。でも改善の余地はあると思います。そのために、いろいろな意見が上がることは、ありがたいことだと思っています。

(「日記ぃ・ぽーたー」2001.11.23)

■Side-C■

 ぶこうさんの日記を読んで。の続き。

 えーと。ぶこうさんは、原書房の『本格ミステリベスト10』の「影響力」という要因を、意図的に度外視しているように思えるんですが。

 プロの本読みと素人読者では、作品の読み方が違う、という前提に立った場合(その二分法についても、私には異論はあるのですが、その論議はこの際後回しにして)、一番影響力のある(と思われる)ムックにおけるランキングが、素人読者寄りではなく、プロの偏った(?)指向に依拠したものであるべきだ、というのは、批判するのにはその方が便利なのかもしれませんが、影響力という点を勘案すれば、問題があるのではないでしょうか?

 たとえば、ジャンル外の読者が「たまには本格ミステリとやらを読んでみようかな」などといって、ベスト10のランキングを参考にして本を選ぶ、なんてのも、ケースとしては考えられると思うのですが、そういう場合に、今のままでは、プロの選んだ(=ぶこうさんの共感できない?)作品が試供されて、「やいやい、こんな作品ばっかなら本格なんて読んでらんねえや」といって、本格ミステリに愛想を尽かしてしまう……ぶこうさんの目からは現状、そんなふうに見えているのだと思うのです。でもそれが、素人読者が選んだ(=ぶこうさんの共感できる)ランキングになっていれば「こういう面白い作品があるんだ」となるはずで、だからぶこうさんの価値観に従えば、後者の方が、より良いこととして受け容れられるはずだと、つまり「影響力」という要因を勘案すれば、今回の「素人」の「増員」は、まあ完全な結果が得られるわけではないにしろ、ぶこうさんにとってみれば、より良い方向性を持ったものとして、受け容れられるはずなのではないかと、私からすれば思えるのですが。どうなんでしょう?

 自分の味方が敵チームに獲られた、みたいな見方もあるでしょうが、敵の戦力がこれでダウンした、というふうに見ることもできるのでは。

 というのが、私がぶこうさんの日記を読んで首を捻った第一のポイント。

 さて、ここからが肝心なのですが、その「敵/味方」、つまり「プロと素人」という分け方なんですが、それってホントにそんなふうにハッキリと二分されうるものなんでしょうか。

 たとえば素人読者の中にも、本格ベストのランキングや、本格ミステリ大賞の結果に、共感できる、という人もいるはずです。そういう人たちの存在が、ぶこうさんの論では除外されています。それを除外しないためには、そういう人たちは、そういう嗜好を持っている段階ですでに「プロ」の側に分類されるのだ、というふうに理解するしかありません。

 つまりその段階で、「プロ/素人」の区分は、嗜好の違いなんだな、というふうに理解されます。そしてそうであれば、嗜好の違いは単純な二分法では対処できない、ということはもう明らかです。

 たとえば、ぶこうさんが自分で納得できるランキングを作ったとしましょう。で、ぶこうさん以外にも、本格ベストのランキング(あるいは本格ミステリ大賞の候補作)には共感できない、という人がいたとします。じゃあその人たちは全員、ぶこうさんのランキングには共感できる、ということになると思いますか? そうはならない。ぶこうさんのランキングにもぜんぜん共感できない、という人も多いはずです(もうその時点で「プロ/素人」という二分法は崩壊している)。そうやって考えていくと、結局、各人ごとに、オレにはオレのランキングがある、と言うことになる。

 ちなみに、昨年版の『本格ミステリ・ベスト10』の投票者で言った場合、ぶこうさんの二分法に従えば、いったい誰がプロで誰が素人なのでしょう。全員がプロだと主張するのでしょうか。あるいは『火蛾』と『壺中の天国』に投票した人がプロで、『○○○』と『×××』(具体的な作品名はわからないけど、ぶこうさんが良いと思った作品)に投票した人が素人、というふうに見分けるのでしょうか? それは「素人/プロ」ではなく、単に「自分と嗜好の似た人/それ以外の人」の二分法なのではないかと思います。それはそれで、素データを活用するという点では、あの手のベスト本の正しい活用法であるとは思いますが、ただその場合、「それ以外の人」を「プロ」としてひと括りにするのは、ちょっと乱暴な分け方なんじゃないかなあと思うわけです。

 実際に『本格ミステリ・ベスト10』の個々の投票内容を見てみれば、本当に各人各様だなあ、と思うと思うのですが。昨年版で1位に選ばれた『奇術探偵曾我佳城全集』にしたって、投票しているのは全69人中13人しかいないわけです。残りの56人は、自分のベスト5にも入れていない。それが集計してみれば、自分が投票に参加したランキングの1位になっている。本格ミステリ大賞だって、有効投票数50票中、『壺中の天国』に投じられたのは13票だけだったわけですし、それ以前に候補作選びの段階でも、かなりの作品が切り捨てられて、その結果として、あの5作が残ったわけです。たぶんその5作とも、推した人と推さなかった人とで比べれば、推さなかった人の数の方が多い。どんなベスト選びでも、私はだいたいそういうものだと思います。

 それなのに、集計結果だけを見て、さらに投票の母集団をひと括りにして、これがあなたたちの選んだランキングだと言う。ほとんど全員が同じ作品を推した、その結果であれば、それはもちろん、おっしゃる通りなのですが、ランキングなんて通常、票がバラけるものだし、個々の構成員にしてみれば、自分の投票はこれだ、その個々の投票に関して何か言われるのなら、それはそれで受けて立つ用意はあるが、その集計結果についてまでは、あたしゃ責任持てないわよ、という人が大多数なわけで(個人の投票内容と集計結果のランキングが、たまたま一致した人がいれば、その人は集計結果に対しての批判も受けて立つでしょうが、それはほんのひと握りの存在でしかない)。

 個々を見ればそんなふうに、バラエティに富んでいるのに、母集団をひと括りにして、あの人たちは一般人には親しみにくい高踏的な嗜好を持っていて、で、それとはまた別な母集団があって、そこにこそ一般人にとって親しみやすいランキングがある、みたいな考え方は、うーん、それはちょっとどうかと思うのです。

 と長々と書いてしまいましたが。

 たぶん私はトンチンカンなことを言っているのだと思います。ぶこうさんの言うところの「プロ」とは、おそらく、イコールで「書評などで原稿料を得ている人たち」のことを指しているのだと思いますし、「素人」は「そのことによって報酬を得るでもなく、ただ単に自分の愉しみとして本を読んでいる人たち」のことを指しているのだと思います。

 だとしても。

 たとえば私は、今年の一月から「探偵小説研究会」に入会して、以降、稿料の入る原稿も何本か書いたことがありますが、そうすると私は、ぶこうさんの二分法によれば、たぶん今は「プロ」に分類されるわけです。でも去年までは「素人」だった。つまり境界線を跨ぎ越えている。じゃあ去年と今年で、私の本の読み方が変わったかと言われれば、別に何も変わってはいない。

 そういう私個人の実感からしてみれば、原稿料を貰う/貰わないで、プロ/素人が区別され、その両者で読み方が違うはずだと言われても、そんなことはない、ここにその反例がいる、ということになってしまうわけです。

 そして、それはたぶん、私に限った話ではない。今はプロでやっている人が、じゃあ素人時代にどんな読み方をしていたかと言えば、今とそう大して変わらない、という人がほとんどじゃないかと思います。逆に、今は素人の読み手であっても、将来的にプロの書評家になれる、そんな読み方をしている人も、現状いると思います。

 もしどこかで線を引く必要があるなら、現状で稿料を貰っている/いない、ではなく、何かそういった根本的な読み方の差で、線を引くべきなのではないかと思うのです。

 その線引きの結果、ぶこうさんの言う「プロ」の側に分類される人たちに共通しているのは、たぶん本を読んだ数、冊数だと思います。年間に読む新刊の冊数と、今までに読んできた累積の冊数。線を引くにしても、両者の違いはたぶんそれだけでしかない。そして、冊数を横軸に取り、人数を縦軸に取れば、グラフは正規分布を描くのではないか。もしグラフが、中央が凹んだ、ふたコブ型になるのならば、グループ分けをしてもいいと思いますが、ひとコブの正規分布を描くのならば、線を引いて二分するのは、ちょっと乱暴な気がするのです。

 ぶこうさんの二分法に対する私の違和感は、たぶんそのあたりに根ざしています。

 そして(本を読むことで金銭を得ている/得ていないに関係なく)冊数を多く読んでいる(と思われる)人に、なるべく均等に投票に参加してもらうというのは、そう悪いことではないと思うのですが。これでベストの状態だとは、もちろん言えないにせよ、昨年と比べてモアベターだとは、言えるのではないかと。

 そのあたり、どうなんでしょう?

 何にせよ、こういった話が討議されること、そのものが、本格ミステリ界の将来について有意義であることは間違いないと、私は思っています。ぶこうさんの視点は、本格ミステリというものに対して、常に現状を懐疑的に見て、より良い方向性を探る、という姿勢を持っている点で、貴重なものだと思います。

 私も、ぶこうさんとはポイントが違うものの、本格ミステリ界の、現状でベストではないと思われる点について、いろいろと考えてみるキッカケにさせていただきました。

 などと書いて、まとめモードに入ってしまったが、そういうわけで、この話、さらに続けていきたいし、もっと他のページにも波及していってほしいなと思ったり。

(「日記ぃ・ぽーたー」2001.11.30)

■Side-C■

 ベスト選びについて、さらに言葉を補足。

 以下は「ランキングには影響力がある」という前提で書いている。

 さて、くだんのベスト本は、編者が特定の人たちに投票を依頼することによって成り立っている。しかしその「人を選んで投票を依頼する」という行為そのものが、ランキングの結果をある程度左右するだろう、というふうに考えると、つまりそこはかなり「責任重大」なわけですよ(もちろん、私個人が単独で責任を負う立場にいるわけではないのですが、いちおう今年は、編者である「探偵小説研究会」の一員として、そこに名を連ねてはいるわけで)。

 ということに今回、意識的になったところで、じゃあどういうふうになっていれば、その重大な「責任」を果たしたと言えるのか、みたいなことを考えたときに、これは私個人の考えでしかないのだが、つまり「最大多数の最大幸福」みたいな、って言ってもよくわからないけど、とにかく「偏りが最少」という点でなら、何らかの「理想解」があるんじゃないかなあと思ったわけで。

 そういう、ちゃんと民意を反映(イヤな言い回しだけど)しているかどうか、みたいな指標でならば、理想解みたいなものがあるという気がして、でもそれがわからないから投票しているわけで、何だかトートロジーっぽいんだけど、とにかく人智を超えたところに理想解があり、それに近づけるように母集団を選ぶことが正解、というか、とりあえず母集団を増やせば近づくんじゃないか、みたいな考え方は、ひとつあるように思うんですが。

 ランキングなんてどうでもいいよ、オレは個々の投票内容を参考にするよ、という読者ばかりならば、こんなことに気を遣う必要もないんだけど、現実にはそうじゃないわけじゃないですか。だとしたら、編者が「ランキングなんてどうでもいいよ」と言うのは、無責任だと思うし、投票者を選ぶことに関してはやっぱり責任を持つべきだろうし、責任を持つとしたら、何をもって良し悪しの判断を下したら良いかというふうに考えると、なんだかそんなことをウダウダと考えざるを得ない羽目になって。

 そのあたりの問題意識が、共有されているのかどうか、他の人の意見を見るにつけ、ちょっと不安になってきたので、今回こうして言葉を補ったのである。そのへんの問題意識は理解した上で、でも「理想解の出し方がそれではダメなんじゃないの」みたいな話ならば、とってもわかりやすいんですが。あるいは「理想解があるなんて幻想だよ」とか、「そんなことに責任を持たなくていいよ」とか、そういうレベルでの発言も有り得るかも。

 ただ、一読者としての意見ですが、みたいな話になると、はなから私と前提条件が違っているわけで、そういう立場ならそういう意見もあるでしょう、でも私の抱えている問題の解決には参考にならないなあ、みたいな感じで、こう、私としては、いまいちピンと来ないところがあって。

 たとえば「この国に原発は必要か不要か」というテーマで話し合っているつもりだったところに、「オラっち村に原発は作るな」みたいな意見が出されたら、それはそれで、テーマと無関係ではない、ひとつの立派な意見ではあるんだけど、言われた方はこう、何かしょんぼりしちゃうじゃないですか。

 というか、もうすでに、私が最初に書いた時点での前提なんて、どうでもいいレベルで、話が展開してしまっているんですかね? だとすればそれはもう論議でも何でもなくて、各人がただ単にそれぞれの立場でしか物を言っていない状態で、まあそれはそれでいいんだけど、結局私の抱えていた問題なんてどうでもいいのね、ってな感じで、放置プレイに快感を覚えるタイプならまだしも、私はそういうタイプではないので、やっぱりちょっと淋しい気がするのだった。

(「日記ぃ・ぽーたー」2001.12.04)

■Side-C■

 お祭り騒ぎでいい。それに関して誰も責任なんて考えなくていい。そういった、いかにも日本人的な方向に話が落ち着くのなら、組織の末端にいる私としても、今までどおりお気楽に構えてていいってことで、それならそれで大歓迎。でもそれでいいのかなあ? 最近よく言われている「危機管理意識」ってわけでもないけど、お祭り騒ぎのその裏で、(主催者側の)誰かがちゃんと、何か事が起きたときの責任の所在について考えている(ただこの「考えている」が「結論が出ている」とイコールではないところが弱いのだが)、みたいな体制は、やっぱり必要なんじゃないのかなあ。

 ところで書評や評論のプロって何だろう? 私としてはどうしてもここに拘るのね。自明な存在として考えてる人が多いみたいで、ちゃんとした定義を見せてもらってないんだけど、たとえばプロテストがあるスポーツとかならばともかく、書評という活動において、そんな括り(線引き)ははたして有効なのか。

 それだけで食べていける人、っていう定義なら、たしかにプロと呼べるかもしれないけど、でもそれだと数が少なすぎて話にならない(たとえば探偵小説研究会の人間で言えば、よく知らないけど、たぶん7割以上の人間が普通にサラリーマンをしていて、本職をキッチリとこなした上で、平日の夜とか週末とかに本を読むという生活を送っている。「一般読者」と変わんないでしょ?)。かといって、一度でもその関係で原稿料を貰ったことのある人間、という括りだと、貫井徳郎さんの作品で文庫解説を書いたフクさんとか、太田忠司さんの作品で文庫解説を書いた大矢さんとかは、プロってことになるけど、それでいいの?

 分けるなら、境界線の定義(何をもって線を引くか)をハッキリさせましょう。だって、そういった定義もなしに、ただ単にイメージだけで「あの人はあっちのグループに入ってるんだよ」というふうに仲間外れにされたら、当事者としたら納得いかないでしょう。

 というか、それって一種の差別なのでは? ハッキリとは言えないけど、自分たちとは何かが異なる、と思う人を抽出し、それにレッテルを貼って、俺らはあの連中とは違うよと胡座をかく。そういった作業のために用意された「プロ/素人」の2分イメージならば、それはある種の差別意識によるものであると言えるのでは?

 でもたとえば「あの人は探偵小説研究会に入っている」というのは事実なので、そういった分類なら差別的ではない。「プロ/素人」という切り口で話している人が、もしちゃんとした線引きの定義を用意してなくて、でも漠然と「探偵小説研究会員/一般の読者」に近いイメージで話をしているのだったら、とっとと後者に切り替えましょう。そうすれば差別的な色が消えて無難になる。「探偵小説研究会員じゃないけどこの人はプロの側に分類してた」という人が、それだと全体集合から洩れちゃうけど、まあいいでしょそれくらい。逆に「探偵小説研究会員だけどこの人は素人の側に分類してた」という人がいたら、その線引きではまずくて、っていうかオレ的には自分がそこに入るイメージだったんだけど、で、だからこそ「プロ/素人」の線引きって変じゃないの? って拘ってたんだけど、どう見られてるのかなあ?

 まいいや。俺のことはおいといて、とにかくどうにかして線を引き、グループを2つに分けたとする。で、その両者の間に(個々を見れば、Aグループの構成員なのにBグループの側に近い人、あるいはその逆とかもいるんだけど、トータルな傾向として見た場合)、明らかに嗜好の差があると見ているわけね。うん。俺も何となくそれは思う。

 だけどそれは(話を戻すけど)やっぱり「プロ/素人」というレッテルとは違うでしょう。俺が感じるのは「テーマを重視する読み方/単純にトリックとかが好きな読み方」というか。嗜好の違いで言えば「文学評論好き/ミステリ固有の面白さが好き」と書いても良い。で、研究会員の中では前者の比率が高くて、一般読者では低い、ってことなら、なんとなくわかるんだけど。だから「研究会/一般読者」って線引きならアリだと、俺も思うわけよ。

 でもそれって結局、根本のところは、ベスト作品を選ぶ際にどの要素を重視するか、っていう嗜好の違いなわけだし、「研究会/一般読者」で分けなくても、たとえば「文系/理系」で分けたって(またそれかい!)、文系には「テーマ重視派」が多くて、理系には「トリック重視派」が多い、みたいな傾向があるかもしれないわけで。そういうふうに考えると、たとえ有意な数字が出たとしても、分け方と原因はイコールじゃない場合ってのは確実にある。

 結局、嗜好の違いを抽出すべくグループ分けをした、その分け方と、その嗜好の違いをもたらした原因とが、一致してないところが、俺がピンと来なかった(今回の言い方で言えば「差別的」と感じた)要因なのかなあ。

(「日記ぃ・ぽーたー」2001.12.10)

■Side-C■

 前言撤回ってわけでもないんだけど。本格ベストの話。

 編者が投票者選びの段階でちゃんとその責任を果たしたかどうか、というのは、気にすべき点ではあると(個人的には依然として)思ってるんだけど、それを「ランキングの偏りの無さ」という指標をもって測ろう、という部分が変だとの指摘を受けて、それならこういう別解もあるよ、という話。ちなみに、途中いろいろと回り道をしたけど、以下に記すのが、オレの現時点での結論ということになる。

 編者が個々の投票者に対して「数多い本格ミステリファンの中から、優先的に、私はこの人の選んだベストが知りたい、そしてこの人の選んだベスト(オススメ本)は世に紹介する価値があると思っている」という部分においてのみ、編者は投票者の選定に責任を持つ。そういう姿勢なら現状でも(たぶん)あって、そして責任を持つのはそこまでで充分。個々の投票内容を見ずに集計結果のランキングのみを見て、あれこれ言ったり、参考にしたりする人のことなどは、編者はフォローしなくてもいい。

 ランキングの影響力のあるなしで言えば、現状では上記のような態度でも通用する程度でしかないので問題ない。また逆に、編者が上記のような態度を貫けば、今後もその程度の影響力しか持たない状態が続くだろう。現状で『このミス』が持っているような影響力を、『本格ベスト』は将来的にも持たない。そのアンケート結果を集計したものは、権威のない(?)ランキングであり続けると。なぜなら、そのランキングが偏っていないことを編者が保証していないから(とは言っても、『このミス』だって、そんな保証はしてないはずで、あれは編者(投票者の選定に責任を持つ人間)が誰なのかよくわからないけど、関係者個々の発言の中では、ランキングのひとり歩きを憂うようなものも見られたし。今年も茶木予想に対するコメントの中にそういうものがひとつあった。なのにああなってしまった以上、『本格ベスト』だって、そうならないとは断言できない。そこが心配の種として残るのだが)。

 というようなところに、市川の「個人的な意見」は落ち着こうとしている。っていうか、もともとそれに近い考え方だったのが、今回の投票者増員に間接的に関わって、『このミス』の影響力の大きさを横目で見つつ、いろいろと考えているうちに、ああなってしまったのである。特に編者が「研究会」という団体であり、個人で責任を取るような形にはなっていないところに、優柔不断な態度を生み出す原因があったように思う。アンケートの依頼が締め切り直前になってしまったのも、増員候補のリストは早めに決まっていたものの、誰がそれを承認するか(誰が個人的に責任を負うか)と言えば、誰でもないわけで、そこで研究会員の総意を得る、というか、反対意見があったら言ってね、というところで妙な停滞期間があって、GOサインがなかなか出なかった、という裏事情があったのである(こんなことここで暴露っていいのかな?)

 オレだけでなく、たぶん研究会員の誰にしても、個人で責任が持てるものなら、もっと潔く行動できていたものと思う。たとえば、くだんのベスト本が「市川尚吾プレゼンツ」という形であれば(売れないだろうけど)、オレ個人ですべての責任を負えるので、投票者の選定にしても、オレの趣味で選んだのだ、文句あるか、という態度で臨めるのだが、編者は23人からなる団体だし、オレは後から入った人間だし、というわけで、責任の所在が分散してしまっているぶん、自分にできることはと言えば、まずは考えること、そして考えていることをここにこうして書くぐらいで、個人で責任が取れない>自信が持てない>客観的な拠り所を求める>読者の総意を反映したランキング、というふうに話が進んでしまったのである。

 たぶん次回の研究会では、『本格ミステリ・ベスト10』の反省会のようなことも行われるはずで、だから市川は上記のような態度(ランキングが偏っていようがいまいが知らない、とにかくオレはこの人たちを投票者に選んだことに関しては責任を持つ、という態度)でその場に臨むことになると思うのだが、研究会(+版元)が出す結論がどのようなものになるかは不明である。オレの考えには、当該ムックの「売れ行き」という要因が考慮に入っていないし、そもそもそんな問題は取り上げないかもしれないし。

 あと一点、プロの線引きに関する問題については、前回日記に書いたあとで、ある方からメールをいただいて、考えさせられるところがあったのだが、それはまた別途、機会があったらということで。

(私信:お忙しい中、お手数をかけさせてしまいまして、すみませんでした。ただ一点、「ミステリ出版界」では云々、と書かれていましたが、もちろんあれはそういう話ではありません。その点についてだけは、ハッキリさせておかないと他にも類が及ぶので、早急に補足せずにはいられませんでした(ので、ここに書いています)。あれは市川個人の考え方の問題です。そういうことでヨロシク)。

(「日記ぃ・ぽーたー」2001.12.12)

俺は5年前にここまで考えて結論を出している。当時と今とで「ベスト10」の影響力が変わったとも思えない(少なくとも刷り部数は横ばいのはず)。もし議論が蒸し返されようとしているのなら、俺の結論は5年前と変わらないとここに明言しておく。

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