市川尚吾の蔵出し

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2006-12-11

[]評論論1(作家兼任の場合の罠) 22:38

児童が描いた絵を見て、その書き手の心の状態を診断する方法がある。被災児童に絵を描かせたら、映画「サスペリア2」に出てくるような絵を描いたりする場合がある。心の傷が癒えるとともに、描かれる絵の傾向も無難なものになっていって、それが逆に回復のバロメーターとして使われることもある。

心理テストというのも流行した。被験者にフリップを渡し、たとえば「一本の木に果物がなっている絵を描いてください」などとお題を言って絵を描かせて、仕上がったところで「実はこの絵によってあなたの××がわかります」と言うようなやつ。

どちらの場合でも、絵を描く側(被験者)は無邪気(無知)であることが求められている。児童(被験者)は無邪気に絵を描く(回答する)のみ。メタレベルに立つ分析官のみが心理分析の仕組みを知っている。

評論家は時として、その手の心理分析官のような役割を果たすことがある。心理分析官は児童に対してメタレベルに立っているので、「あなたの絵には震災の心理的後遺症が表れている」と言われた児童が、「僕はそんなことを表現するために絵を描いたのではない、ただ単に無邪気に表現しただけだ」といくら反論したところで意味はない。有栖川有栖がいくら「自分は無邪気に本格ミステリを書いただけだ」と言い張っても、笠井潔の大量死・大量生理論への反例とはなりえないのも、同じ構造を持つ。

しかしすべての本格作家が無邪気に赤い実を食べ、無邪気に赤い鳥となって囀っているわけではない。最初から(あるいは途中から)心理分析の仕組みを知っていた(知ってしまった)聡い児童もいるはずだ。

心理分析官に「自由に絵を描いてください」と言ったら、どんな絵を描くだろうか。彼にどんな絵が描けるだろうか。作家・法月綸太郎の苦悩は、実はそんなところに根ざしていたのではないか。

法月綸太郎はエラリー・クイーンという作家を対象にした評論を書いているが、作家EQも、心理分析官の仕組みを知っていて、自分の絵がどのように分析されるかを理解した上で、絵を描き続けたようなところがある。そうして描かれた絵は、無邪気に描かれた絵と同じ仕組みで分析することができない。メタレベルで書かれたEQを分析した作家法月はメタメタレベルに立っている。その法月が、絵を描く側に回ったときには、通常の「無邪気に描けないレベル」ではなく、そのさらに上のレベル(メタレベル)での「無邪気に描けないことすら無邪気に描けない」自分を発見したのではないか。

作家が評論の仕事もしている場合には、こういったメタメタ地獄(一種の自縄自縛状態)に陥る危険性がある。有栖川有栖にしても、実は本当に無邪気なわけではないはずだ(有栖川は『本格ミステリの現在』にも参加しているし、文庫解説などで対象作品を分析することもあるはず)。それでも作家モードのときには無邪気に徹して(というよりは無邪気を装って)小説を書けてしまうところが、作家・有栖川有栖の強みではないのか。

ちなみに心理テストの被験者の中には、回数をこなしていくうちに、質問と回答のパターンから要領をおぼえて、「これはセックスの回数に結びつける質問だな」などと当たりをつけてしまえるようになる人がいる。入力と出力のペアをいくつか見ただけで、感覚的に「この入力ならこの出力だろう」と見抜いてしまえるような「要領のよさ」。

そこからさらに一歩踏み込んで、なぜこの入力だとこんな出力になるのか、その中間のブラックボックス部分の仕組みを解明しようとするのが、評論家の仕事なのかなと思う、今日このごろである。

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