市川尚吾の蔵出し

 | 

2007-04-07

[]アニメ・まんが的記号の問題 07:15

東浩紀、仲俣暁生、ユリイカと読んだ流れで、笠井潔『探偵小説と記号的人物』を再読しているのだが、笠井が論中で大塚英志の論に触れているのを読むたびに思うことがある。

アニメ・まんがにおける記号化は、なぜ人物に限定されるケースが多いのか。人物に関しては、いわゆる美少女絵のような、その世界でパターン化された抽象化の技法が存在する。しかし背景に関しては、多くの場合、写真をトレースしたようなリアリティ指向で画面が統一されている。マンガにおいて、背景にも人物の場合と同じような抽象化の処理がほどこされているのは、鳥山明「Drスランプ」におけるペンギン村など、ごく稀なケースでしかない。ここにすでにひとつの不徹底が見られる。

現実には発生しうる場面が、記号化された人物では描けない、という場合がある。たとえばある人物が実は義眼であり、それを明かすために義眼を取り外す、という場面を想定してみよう。少女マンガから美少女絵に続く系譜の、あの目が異様にでかい絵柄では、取り外した義眼の大きさ(そのネガとしての、顔面にぽっかり空いた空洞の大きさ)が問題視されるだろう。現実には眼球のサイズは直径24ミリでほぼ統一されている(と間羊太郎『ミステリ百科事典』には書いてある)。リアルにその縮尺で義眼を描くと、もう片方の健常なほうの目とのサイズの違いが明らかになる。ではマンガ的記号の縮尺で義眼を描いたらどうかというと、取り外して手に載せた義眼の大きさがテニスボールぐらいに描かれる不自然はまだ許せるとしても、顔面に空いたそれと同サイズの穴は解剖学的矛盾を導出し、記号の嘘を暴き出してしまうだろう。そうした事態に対処できる形で記号化をめざすならば、吉田秋生や大友克洋のようなリアルな縮尺で、顔の中の目の大きさを描くしかない。

あるいは、樋口有介の小説を読んでいると、ヒロインの美少女が小鼻を膨らませるシーンというのがけっこう出てくるのだが、これをマンガで再現するとなると、そのシーンのときだけ小鼻が描かれるというのは不自然で、普段から小鼻を描いておく必要がある。

人物だけに限定してみても、記号化にはいろいろな階梯があり、その不徹底がいくつかの矛盾を含んでいることは、以上のようなことを少し考えてみればわかるはずである。

結局、リアルに人体に起こりうる現象をすべてマンガでも描けるように意識したら、マンガは記号化という抽象化を放棄せざるを得ない。逆に記号化に拘るとしたら、その技法では描けないことがあるということを、せめて自覚しなければならない。アニメやマンガの世界では、その点に無自覚なまま、マンガ的記号を安易に使う書き手がことのほか多いように思う。既存のアニメやマンガをほとんど全ての入力として、そこから自分の絵柄を出力する作家の場合は、ほぼ該当するだろう。

#「サザエさん」における人物の記号化は、非リアルな縮尺を採用していて、抽象化の度合いが高い。そこから生じた矛盾(ある場面でタラちゃんの右腕が長くなる)がアニメで析出し、それがユーチューブにアップされて、一部のブログで話題になったりしたのも、文脈としては同じである。

「サザエさん」は、アニメとしては特殊なケースだが、一般にアニメ絵といわれる絵柄の書き手は、既存のアニメやマンガの絵柄を唯一の入力材料としているように思う(東浩紀の論じる「オタク的データベース」がそこにある)。抽象的絵柄を入力として抽象的絵柄を出力する、その繰り返しの中で、伝言ゲームのように変化が生じ、非リアルの度合いがさらに高まることもあるだろう。没個性化することもあるだろう。そういう絵を、オレはまったく好まない。

そうではなく、既存の絵柄とともに「現実」からも入力して(人物のデッサンなどを行って)自分の絵柄を作り出した作家の場合には、自分の選択したマンガ的記号で、何が描けるか・何が描けないかを、かなり自覚していると思う。それでも抽象化の度合いが高い絵柄を(たとえば、大友克洋ふうではなく鳥山明ふうを)選択した場合には、その絵柄は単に「リアルを描けない」のではなく、「リアルを描かない」という作家の意思が、そこに含まれているのだと思う(逆に「リアル指向では描けないものが描ける」場合もあるだろう)。そういった内的な試行錯誤を経て獲得された絵柄の場合には、結果的にアニメ絵になろうが何になろうが、オレに訴えかけてくるものがあると思うし、そういうアニメ絵ならば許せると思う。

「本格ミステリ」の場合にも、ジャンル独自の「オタク的データベース」がある(乱歩の「類別トリック集成」に象徴されるようなもの)。だから、本格ミステリを唯一の入力として本格ミステリを出力すると、アニメ絵と同様の抽象化の進行(非リアルの度合いの高まり)が発生する危険性がある(光文社文庫の旧『本格推理』シリーズで、包丁から形取りして冷凍庫で氷の包丁を作って人を刺殺するとか、家庭用の掃除機でターゲットのいる部屋を真空にして窒息死させるとか、とんでもないトリックを使った短編が採用されたことがあったが、それはその作家が本格ミステリの「オタク的データベース」のみを入力としたからであろう)。

「オタク的データベース」のみを入力とするのではなく、「現実」からも入力をおこなって、そこから自分なりの記号を作り出すこと。その記号で何ができ・何ができないかを熟慮した上で、記号を選び取ること。そうした内省的過程を経ることによって、記号的作品の「説得力」は格段にアップする。

舞城王太郎、佐藤友哉、西尾維新、浦賀和宏、北山猛邦、乙一、米澤穂信など、ミステリの世界で00世代と呼ばれている若手作家たちがいる(おそらくはそこに辻村深月や道尾秀介なども含まれるのだろう)。彼ら彼女らは、世代的にひとまとまりにして扱われることが多いのだが、個々の抽象度(記号化の度合い)にはかなりの差がある。記号選択の際の内省的過程をどれだけ徹底しているかの度合いにも、書き手によってかなりの差があるように見受けられる。結果、そこから導出される作品の「説得力」にも、差が生じているのは当然のこと。その作家がブンガクを志しているなら、別にどうでもいいのだが、もしミステリを志しているのならば、真相の「説得力」は強固なほうがいいに決まっている。

#ただし「説得力」を増すために「現実」を取り込みすぎると社会派的リアルに行き着いてしまうが、それでは描けないものがあるのは当然のこと。社会派的リアルでは描けないが、それより抽象性を増した本格ミステリでは描けることというのがあり、また20世紀型の本格ミステリでは描けなかったが、それより抽象性を増した21世紀の新伝綺なら描けることというのもあるだろう。

ただ、以下は00世代に限った話ではないが、あくまでもその書き手が本格ミステリを志向するというのならば、作品ごとに「やりたいこと=ネタ」というのがあって、そのために必要とされる「抽象度」のギリギリ最低ラインというのがあるはずで、そのギリギリの線を選択せずに、不必要に記号性の高いルールやキャラを導入して「説得力」を薄くする態度は、その「ネタ」に対して不誠実だと思うし、個人的には好ましくないことだと思っている。

 |