市川尚吾の蔵出し

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2009-03-06e-NOVELS原稿5

[]週刊書評272回 08:32

榴蓮のように

『天帝のはしたなき果実』(古野まほろ/講談社ノベルス)

 第35回メフィスト賞受賞作。ノベルスで800ページ超の大作である。かなりのボリュームがあり、さらに言葉遣いも独特で、スラスラ読むというわけにもいかず、読了までに丸三日かかった。時間をかけて大量のインプットを行った感じだが、その割りに自分の中から出てくるアウトプットの量が少ないことに、自分でも驚いている。こうしてエディタを立ち上げてみたものの、さて何を書けばいいのだろうと、途方に暮れている自分がいる。

 ともあれ、まずは内容紹介から。

 物語の舞台は、満州を属領とし軍隊が幅を利かせている並行世界の帝国日本。時は1991年秋。地方都市にある勁草館高校の吹奏楽部の精鋭八人が、アンサンブルコンテスト出場を前に猛練習に励んでいる。

 主人公は古野まほろ(高二男子)。鬱病の既往症がある。

 彼が憧れる相手が峰葉詩織。不感症の悩みを持つ。

 穴井戸栄子は姉御肌の遊び人。幼少時に両親を殺害された過去を持つ。

 切間玄は陸軍中佐の息子。関西弁ドイツ語交じりの喋りが特徴。

 志度一馬は性同一性障害を持つオネエ系の武闘派青年。

 修野まりは子爵家令嬢。感情を表に出さない「人外」。

 上巣由香里はメンバー唯一の一年生。従順な後輩キャラ。

 柏木照穂部長は超乾燥系の部長キャラ。

 ――と、思わずメンバー八人の人物紹介をしてしまったのには理由がある。何しろ物語の開幕直後、この八人がいっぺんに登場して、お互いに喋りまくるのである。読者にとっては、それぞれのキャラ設定がまだ飲み込めていない段階での、そのやりとりが、けっこうきつい。巻頭に「登場人物一覧」でもあれば事前準備もできようが、それもない状態では、とにかく我慢して読み進むしかないのである。なので、これから本書を読む予定だという人のために、ここで主要メンバー八人の紹介をしておこうと思ったのだ。

 しかし読み進むのがきついのは、何も八人のキャラが飲み込めていないばかりが理由ではない。

「ものによりますよね、紅茶は。でも『サンドリヨン』っていうのは結構よかったです。あたしの好きな桃(ピーチ)の香紅茶(フレイヴァーティ)」

「お、あれやろ。最近姫山大街道にできた『カフェ・プランセス』やろ?」(中略)「カフェオレやなくってカフェ・クレームいうとるのがなんか本格的(スティルレヒト)でええわ。そこはかとなく巴里(パリ)の薫りするしな。ただマンタローとかシトロンプレッセちゅうんはどないな飲み物(ゲトレンク)か、未だにわからへんけど」(p20)

「なんやと(ヴァスドゥザークスト)、古野それやったらお前、みごとブービーだった体育祭各部対抗四×一〇〇メートルリレー(シュタッフェルラウフ)の落とし前、どないしてくれるんですかぁ」

「んなもん出たくて出るか! 僕を選ぶような籤(くじ)、作るほうが間違っとるわ――そんならいうけど、こないだ『牛牛(ぎゅうぎゅう)』の焼肉五千円コース賭けた夜伽(よとぎ)ゼミの東京帝大模試、僕のほうが偏差値うえだったろ、約束履行してくださいぃ」

「だったらこないだ『楼蘭(ろうらん)』のフカヒレスープ、猿の脳味噌アンド燕の巣賭けて泳いだ一〇〇メートルメドレー、泣きの一本まで俺の勝ちやったやないか。今日連れて行ってくださいぃ」(p21)

「姫川なんてこの世の果てよ。やっぱり邪舞邪舞鳥(ジャブジャブチョウ)とか棲んでるの?」

「何だよそれ。新手の第一次近衛声明かい。(後略)」(p62)

 細部にいちいちこだわり、時には相手に通じるかどうかもわからないままマニアックな言葉を織り込むのが「オタク同士の会話」の特徴だとすれば、まさにその典型である。おまけにあちこちルビだらけで、読みにくいことこの上ない。

 こういった「内輪の馴れ合い」的な会話は、どうでもいい情報として読み飛ばしたいのだが、本格ミステリでは往々にしてこういう部分に伏線が張られていたりするので、そうそう読み飛ばしもできない。

 かといって、こういった会話が出てくるたびに、真剣に意味をわかろうとして、いちいち本を閉じて「邪舞邪舞鳥」や「第一次近衛声明」をネットで検索していたら、読了までに何週間かかるかわからない。結局は、どうせ深い意味もないんだろうなと思って、流し読みにするしかないのである。

 ちなみに竹本健治『匣の中の失楽』では、次のような会話が交わされる場面がある。

「勿体ぶった言いまわしや暗喩が多いって言ったけど、あれには気がついているのかなあ。……記憶錯誤(パラムネジー)と催眠術に関して」

(中略)

「あっは。それは恐らく、聖四文字(テトラグラマトン)と木綿和布(ゆうわふ)ほどの意味だろうよ」

「何だって」

(同書5章1節「降三世の秘法」より)

 これも一見、思わせぶりで意味不明な会話である。しかし少し調べてみれば、以下のように意味が通ることがわかる。

「聖四文字」とは「神の御名」を表す四つの子音のことで(昔のヘブライ語の文字には母音に相当する記号がなく、子音のみで表記した。現在の「2ちゃん用語」の「kwsk」などに近いかも)、現在のアルファベットに直せば「yhwh」に相当する。しかしユダヤ教では「汝、神の名をみだりに口にするべからず」という戒律があり、誰もがその戒律を守って神の名を発音しなかったので、時代が下ってみると、「yhwh」にどんな母音を補って、どんなふうに発音するのかがわからなくなっていた。「ヤハウェ」とか「エホヴァ」など、宗派によって主張する発音が違うのはそのためである。母音を好きなように補って良いのであれば、たとえば「u・u・a・u」と補って「ゆふわふ」とすることもできる。「聖四文字」と「木綿和布」の関係は、つまり「証拠(状況/伏線)」と「そこから導き出されうる複数の(恣意的な)解釈のうちの一つ(でしかない)」というふうに、読み換えることができる。その前の発言に対する返答として補足すると、たしかに「記憶錯誤」という状況(伏線)は書かれているけれども、それが「催眠術」によるものだという解釈は一意ではない、それは恣意的なものだという反論に、ちゃんとなっているのである。

 閑話休題。

『匣の中の失楽』の場合、意味不明で思わせぶりな会話は全体に少量であり、また掘り下げてみれば感心するような意味が含まれていた。しかし本書『天帝のはしたなき果実』には、意味不明な会話が頻出する割りに、掘り下げてみても大したものは出てこないような気がする。

 なので意味不明な会話はその都度さくさくと流して、先を読み進めることにする。本書は大まかにいって六つの章からなり、最初のうちは、それぞれの章の最後のあたりで死者が出る。各節の小見出しが「第一の供物」「第二の供物」となっているのが、いかにもな感じで好ましい。

 そういえば本書には「目次」もない。いや、あるにはあるのだが、「第1章」とか「第2章」とか、無愛想な文字が並んでいるばかりなのだ。しかし本編を読んでみれば、各章が13個の節に分かれていて、それぞれの節には小見出しがついており、それがけっこうそそる言葉だったりするのである。『虚無への供物』や『匣の中の失楽』の目次が、見ただけでそそらされるものだったように。だから本書もちゃんとした目次があれば、その目次だけでメシが茶碗三杯はいけるという人も、少なからずいたはずである。

 また話がそれた。閑話休題。

 各章の最後に死者が出る。そういった感じで話が進むのだが、本格ミステリ読者にとっての「本番」は、実はアンサンブルコンテストの「本番」当日に起きた事件であり、その日の出来事が綴られるのは465ページ目以降である。本格ミステリ的には、半分を過ぎてからが、俄然面白くなってくるのである。

 第三章の最後で発見される「第三の供物」に関する推理こそが、本書の本格ミステリとしての最大の山場であり、続く第四章、第五章はその証拠集めと謎解きに費やされる。『虚無への供物』や『匣の中の失楽』を思わせる推理競技も当然のように行われる。

 さらに第六章で思いがけない展開があり、物語は幕を閉じるのだが――。

 といった感じで、個人的には本書をそれなりに楽しんで読むことができたのだが、同時に、これは受け付けない人も多いだろうと思わされた。上に書いたように、道行きはかなり厳しい。でも読むのに苦労する本は、『黒死館殺人事件』しかり『ドグラ・マグラ』しかりで、その苦労があるからこそ最後に達成感と征服感を味わえる。読むのに苦労するからこそ、御馳走と感じられるのである。

 同じ「読むのに苦労する本」でも、作者が手を抜いて書いたために読者が苦労するようなものは、読み終わっても徒労感しか感じられないだろうが、本書は違う。作者が細部まで自分の趣味に淫して、凝りに凝って作り上げたのが本書である。ただし、凝っていると感じるのはオタク的・趣味的な会話の部分が主で、本格ミステリとして一貫して細部にまでこだわっている、というわけではないのが難点だが。

 ともあれ、本書の紹介文を書くにあたって、ここまでに『虚無への供物』『匣の中の失楽』『黒死館殺人事件』『ドグラ・マグラ』という四冊の奇書たちの書名に言及したのは事実である(一部は無理やり言及したようなところもあるが)。現代において、普通のミステリを書くのではなく、いわゆる「四大奇書」の遺伝子を継いだミステリを書こうとした――その志の高さは、少なくとも評価したいのである。

 ただし、遺伝子うんぬんという話になると、本書にはミステリ以外の遺伝子も明らかに入り込んでいる(いわゆる「セカイ系」の遺伝子も)。それが結果的に、作品の仕上がりを安っぽくしているようにも感じられてしまうのだが。

 その点も踏まえた上で、本書をどう評価すべきか。

 僕はドリアンを連想した。個性が強すぎて一般には嫌われているが、ごく一部の人はそれを何よりも美味だと感じる「果物の王様」。本書の中にも「榴蓮(ドリアン)」という単語は出てくる。

 天帝に供えられた「はしたなき果実」の正体は、実はドリアンだったのではないか。

[]週刊書評277回 08:32

現在進行形の罠

『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』(深水黎一郎/講談社ノベルス)

 主人公は新聞小説を連載している作家。彼のもとに一通の封書が届くところから、物語は始まる。「香坂誠一」という差出人名には見覚えがなかったが、ともあれ中の手紙を読んでみる。すると次のようなことが書かれていた。自分は《読者が犯人》という究極のトリックを考えついたのだが、それを買い取ってくれないか……。

 第36回メフィスト賞受賞作。題名の《ウルチモ・トルッコ》とは《究極のトリック》のこと。副題の《犯人はあなただ!》という部分も含めて、実に挑発的な題名である。

 本格ミステリの世界では、過去に幾人かの作家が《読者が犯人》というテーマに挑戦してきた。本作中で言及されているのは(作者はミステリのマナーとして具体的な題名・作家名を挙げていないので、ここでもそれに倣って作家名をイニシャル表記する)おそらくTMとNHの作品であろう。他にも、TN、TKといった書き手が同テーマに挑戦している。そのうちTM以外の作品が講談社から(TN、TKに関しては本書と同じ講談社ノベルスから)刊行されているのは、たぶん偶然ではない(筆者が『本格ミステリ・クロニクル300』でTNとTKの当該作のレビューを担当したのも偶然ではない。……そういえば筆者は『クロニクル300』では、篠田秀幸『蝶たちの迷宮』も担当していたのだった)。

 題名で《究極のトリック》をド派手に謳い、作中でも開幕早々、手紙の書き手が《読者が犯人》というトリックの存在を示唆しているが、そのわりには、物語はけっこう地味に、淡々と進んでゆく。香坂という手紙の送り主の所在がわからないため、作家は彼からの手紙をひたすら待ち続けるしかないのだ。その空隙を埋めるように、大学で超心理学(超能力)を研究している古瀬博士への取材の模様が描かれていたりする。ESPカードを使った実験で有意な結果を出す美人双子姉妹が登場するなど、描きようによってはそこでも盛り上げることができそうなのに、書き手の筆致はあくまでも淡々としている。しかしそれも作者の計算のうちである。

 それにしても古瀬博士の実験というのは本作中において実に示唆的だと思う。超能力者を騙る偽者に不正を働かれないように、博士の実験室ではその設備にも手順にも、さまざまな工夫が施されている。小細工の入り込む余地を事前に潰しておくという点では、本格ミステリにおける不可能性の演出と相通じるものがあると思う。

 本格ミステリにおいては、思いつきだけではなく、それをどう見せるかが重要になってくる。アイデアがいくら良くても、演出が下手だったら台無しである。逆に言えば、演出のうまい作家の場合には、最低でも常にそこそこの水準は期待できるというふうになる。本書で言えば、ある人物の動機に関して「そうするしかなかった」と読者を納得させるように状況を絞り込んでいる点や、最後の主人公のエクスキューズなどに、そうした演出のうまさが感じられる。サブストーリーに使われている不可能トリックが、演出のうまさによって補強されている点は、上にも書いたとおりである。そういった部分で、アイデアに対して最善の努力が払われている点に、作者である深水氏の、本格ミステリの書き手としての力量が表れている。

 閑話休題。話を本筋に戻そう。

 香坂誠一からの第二信、第三信には《覚書》という文書が同封されているのだが、その内容が、本編の地の文の冷淡さ(といっても、抑制が効いた文章で、非常に読みやすいとは思うのだが)とは対照的に、私小説ふうの叙情性を湛えたものになっている。このあたりにも作者のバランス感覚というか、計算の確かさがうかがわれるように思う。

 そこでふと思ったのだが、この《覚書》に記された内容、天文少年のエピソードは、実は作者である深水黎一郎氏の実際の経験に基づくものなのではないか。

 だとしたら、本書の評価は現時点では保留という形にならざるを得ない。その罠は現在進行形で仕掛けられているのだから。筆者の《読み》が正しければ、本書は島田荘司が帯で「この被害者を殺した犯人は、ぼくだった」「誰もが気づかなかった方法。このジャンルの、文句なくナンバーワン」と書いている、まさにそのとおりで、《読者が犯人》という長年の課題にアクロバチックな回答をもたらすものである。

 未読の方は、ぜひとも本書を読んで、《犯人》になっていただきたい。

 以下は既読者を対象とした解説である。ネタバレになるので反転してお読みいただきたい。

(ここから)作中の香坂誠一を殺したのは《わたし》ではないので、ピンと来ない読者もいるだろうが、そういう人は、被害者をずらして考えたらどうだろう。作中で香坂誠一が持っているとされていた「能力」を、実は現実世界の作者=深水黎一郎氏が持っていたとしたら。作者が自身の持つ「能力」を、作中の人物に仮託して説明していたのだとしたら。そう、この本における本当の被害者は、『ウルチモ・トルッコ』の作者、深水黎一郎氏なのだ。深水氏はまさに命懸けで《読者が犯人》トリックを仕掛けたのだ。そう考えれば、本書を読んだ《読者=わたし》は、作者=深水黎一郎氏を死に追いやった《犯人》になる。ただしその図式は、深水氏が急死することによって初めて完結する(だから「罠」は「現在進行形」なのである)。あるいは深水氏は本書に続いて第二作、第三作を発表し、「まだ生きている」ことを証明してしまうかもしれない。だとしても、作中の香坂誠一が「まだ足りない」とばかりに次々と手紙を送って寄越したのと同じだと解釈できるので、本作における《読者が犯人》の図式は揺るがない。本書ではイロモノ的なネタを扱っていたが、上に書いたように、深水氏は普通の本格ミステリを書いても充分に優れた作品を著すことができる才能の持主だと思うので、できれば本書の効果が足りずに、第二作、第三作を著すという形になってほしいと、筆者はここで願わずにはいられない。(ここまで)。

[]週刊書評?回 08:32

トリック&ロジック&ラブコメの佳作

『トリック・ソルヴァーズ 哀しみの校歌』(夏寿司/トクマ・ノベルスEdge)

『トリック・ソルヴァーズ 籠の中の飛べない鳥』(夏寿司/トクマ・ノベルスEdge)

 夏寿司(かずし)は『トリック・ソルヴァーズ 哀しみの校歌』で第3回トクマ・ノベルズEdge新人賞を受賞して今年(2008年)1月にデビューした新人作家で、4月にはシリーズ第二弾『トリック・ソルヴァーズ 籠の中の飛べない鳥』も刊行している。カバーおよび本文中のイラストを担当しているのは“きん太”というイラストレーター。著者名と並んでイラストレーターの名前も表紙に印刷されているのは、ライトノベルに特有のパッケージングだが、版型は新書サイズである。

 私は旧弊な価値観を持っているらしく、ライトノベルが新書サイズで出版されることに関しては、いまだに違和感を覚えてしまう。ただしこの『トリック・ソルヴァーズ』に関しては、ノベルス版で出ていたからこそ自分の目についたという側面もあり、また実際に読んでみれば、登場人物の戯画化が、一般のミステリ読者が読んでもさほど抵抗を感じないレベルに留まっており(本格ミステリにラブコメの味を足したような作風で、似たものを自分の読書経験の中から探すと、霧舎巧の《霧舎学園シリーズ》がいちばん近いように思う)、このシリーズに関してはこの版型がふさわしいと今では思っている。

 内容を紹介すると――主人公は自遊高校二年生で演劇部のエース、桜咲(さくら・さき)。デビュー作『トリック・ソルヴァーズ 哀しみの校歌』では自遊高校の校歌に見立てた教師連続殺人事件が学校内で起こる。“名助手”を名乗る小林少年が登場し、咲と、その同級生の華崎灯(はなざき・あかし)という男子学生の二人をコンビ探偵としてスカウトする。華崎灯は推理力に長けているが人付き合いが苦手であり、桜咲の情報収集力と演技力と舞台度胸がセットになることで初めて一人前の探偵として機能するというのだ。続く第二弾『トリック・ソルヴァーズ 籠の中の飛べない鳥』では、咲の所属する演劇部が山村の村おこしで推理劇を上演することになり、部員の主だったメンバーが招待主の住む“鳥籠館”に招かれる。ちょっとした手違いで玄関扉が施錠され、館内に閉じ込められた十人の間で突如として起こる連続殺人劇。咲の仲間が一人また一人と血祭りに上げられてゆく……。

 上のあらすじでもわかるとおり、一作目は見立て殺人、二作目は館ミステリと、本格ファンのツボを狙ったような内容になっている。また二作とも当然のように《密室の謎》が作中で扱われている。実は事件の背後には、トリック・アーティスターズという黒幕組織の暗躍があり、彼らが犯人に対して芸術的な不可能犯罪を行うよう裏から知恵をつけていた――という形で《トリックの必然性》が処理されており、そこさえ読者が(お約束として)受け入れてしまえば、あとはトリッキーな本格ミステリがごっつり楽しめるというシリーズなのである。

 一作目には、屋上の密室および渡り廊下の密室という二つの不可能犯罪が扱われているが、その真相は本格ミステリファンにとっては、ある種“アンフェア”なものとして映るかもしれない。しかしここでは、その“アンフェア”とも思える真相が、2007年の某話題作とニアミスしていることを指摘しておきたい。あっちがアリならこっちもアリのはずである。また真相を知った上で読み返してみると、作者が本作において“アンフェア”な記述をしないように気を遣って文章を書いていたことがわかる。また二作目では、密室トリックそのものよりも、そこから犯人を特定するロジックに見所があったりするので侮れない。被害者を遺棄した地点から犯人の正体が判明する場面では、読んでいて思わず唸ってしまったほどである。伏線がちゃんと張られている。これぞ本格の醍醐味!

 同じライトノベル系の本格ミステリでは、2004年に西尾維新の『きみとぼくの壊れた世界』が刊行され話題になったが、あの作品には“アンフェア”な記述があり、その点に引っ掛かりを覚えた本格読者もいたように思う。しかしこの『トリック・ソルヴァーズ』シリーズでは、そういった点でも遺漏がない。本格ミステリとして作品を成り立たせようという作者の意識は、こちらのほうが高いと言えるだろう。

 この作者は本格ミステリ読者に対して“フェア”な犯人当てを挑んでいる――その信頼感があるからこそ、このシリーズは、本格ミステリとして充分に楽しめる作品に仕上がっているのだと言えよう。

[]週刊書評?回 08:32

前衛芸術はミステリ

『爆発的――七つの箱の死』(鳥飼否宇/双葉社)

「芸術は爆発だ」と言ったのは岡本太郎。女優の吉永小百合が結婚した相手は岡田太郎で一字違い。両者を混同して、吉永小百合はなぜあんな一般人には理解しがたい人物(つまり天才芸術家)と結婚したんだろうと、困惑していたサユリストもいたとかいないとか。そんな話題を、吉永小百合が「笑っていいとも」のテレフォンショッキングのゲストに来たときに、タモリがしていたのを思い出す。岡本太郎といえば大阪万博のシンボルモニュメント「太陽の塔」をデザインした芸術家として一躍有名になったが、その万博のテーマ曲「世界の国からこんにちは」を実は吉永小百合が歌っていたという奇妙な縁もある(ほとんどの人は三波春夫が歌っているイメージしかないと思うが)。吉永小百合と「笑っていいとも」と歌といえば、鹿の糞をテーマにした吉永の「奈良の春日野」という歌を同番組内で明石家さんまが取り上げたことがあった。たとえ鹿の糞であっても吉永小百合が歌えば立派な歌謡曲になるのである。岡本太郎も「グラスの底に顔があったって、いいじゃないか」と言っている。前衛芸術とは既成概念の破壊を意味している。だから「芸術は爆発」なのだ。そうなると結局は、思いついた者勝ちのアイデア勝負になりがちで、マルセル・デュシャンはただの便器を作品として展示したし、ジョン・ケージはピアノを演奏しない「四分三十三秒」という無音の曲を作った。本格ミステリの世界では、麻耶雄嵩がキュビズムをテーマにした『夏と冬の奏鳴曲』を著しているし、また清涼院流水を嚆矢とするファウスト系作家たちの書くミステリ的に空虚な作品群も(本人たちの自覚のあるなしに関わらず)そういった路線として見直した場合には評価がまた違ってくる。

 鳥飼否宇の新作『爆発的――七つの箱の死』も同様に、前衛芸術をテーマにした本格ミステリと位置づけることができる。六つの独立した短編(として読める作品)に、連作としての結末を用意した最終話が加わった、全七編からなる連作短編集である。鳥飼にはすでに『痙攣的――モンド氏の逆説』という同じ路線の作品があり、ヒグラシモンドやアイダアキラといった登場人物が共通して出てくるものの、今回の作品を単純に『痙攣的』の続編と位置づけることはできそうにない。そもそも『痙攣的』の各話に登場するヒグラシモンドやアイダアキラでさえ同一人物とは思えなかったのだから。鳥飼作品では御馴染みの綾鹿署の刑事たち(谷村警部補や南刑事など)や、『逆説探偵――13人の申し分なき重罪人』(近々に文庫化されるがその際には『逆説的――13人の申し分なき重罪人』と改題の予定)に登場した探偵の星野万太郎も登場するが、今回の『爆発的』は今までの鳥飼作品の路線とはどこか異なった印象がある。

 引退した実業家の日暮百人(ひぐらし・もんど)氏は、市街地から離れた島に私設美術館を建設する。そこで六組の前衛芸術家に作品を作らせようというのである。六組の芸術家の要求を最大限に取り入れた六つのアトリエからなる美術館。ところが作品を発表する段になって、芸術家たちは次々に殺人事件に巻き込まれてしまう。樒木侃(しきみぎ・かん)というキュレーターがすべての事件の目撃者となる……。というような大枠の中で展開される連作短編集なのだが、今回の作品では各短編のミステリとしての造りよりも、各芸術家の作品(作中作)のアイデアが、より重視されている感じなのだ。鳥飼否宇という作家は今回、ミステリ読者に対してと同時に、現存する世界の前衛芸術家たちにも勝負を挑んでいるのである。アイデア勝負ならミステリ作家だって負けてやしないと言わんばかりに。

 だから作中の芸術家たちがどんな作品を制作したかは、ここには書かない。まずはそれを読んで楽しんでいただきたい。そこにミステリがどんなふうに絡んでくるのか、そして連作としてどういった形にまとめられているのか――そういった形で読者に二重三重の興味を持って読んでもらうのが、本作をいちばん楽しめる読み方になるのではないか。岡本太郎が生きていればたぶんそう言うだろうし、吉永小百合も本作を読めばたぶんそう言うに違いない。そもそも『爆発的(ばくはつてき)』という題は「馬鹿は知的(ばかはちてき)」というふうにも読めないだろうか。世に「バカミス」と呼ばれている作品こそ、実は「知的」な作者と読者の営みであるという逆説が、そこには込められているようにも思うのである。

[]週刊書評?回 08:32

怪作の魅力

『浮遊封館』(門前典之/原書房)

「あやしい」という言葉が好きだ。漢字にすると「妖しい」「怪しい」の二種類があるが、どちらもミステリに相応しいところが良い。

「妖」の字の場合にはそこはかとなくエロスな香りが漂っていて、たとえば「妖艶」「妖婦」などと言われると三十路女の色気が感じられるし、一方で「妖精」となると、まだ開発途上の十代少女の色気が感じられたりする。高木彬光の短編「妖婦の宿」も、雑誌名の「妖奇」も、いかにも昭和二十年代的なエロスの雰囲気が表題から漂ってくる。江戸川乱歩の『妖虫』については、個人的にどうかと思うミステリのタイトルの一つなのだが、その評価はさておき、「妖」の字が乱歩の作風に相応しいということだけは言えると思う。

 他方で「怪」の字の場合はそのまま「怪奇」「怪建築」「怪人」「怪事件」といった感じでミステリに直結している。帯やあらすじに「怪」の字が含まれていたら、個人的にはそれだけでそのミステリは「買い」である(駄洒落かよ)。中でも好きなのが「怪作」という言葉。「傑作」「秀作」「良作」「佳作」と書かれているものも、もちろん購入するのだが、それらに混じって「怪作」と帯に書かれた作品があると、まずそれから手をつけてしまうくらいに好きである。

 今回、積読本の山を放置して(順番を無視して)門前典之の新刊『浮遊封館』をまず手にとったのも、帯に「沈黙を破る怪作!」と書かれていたからである。

 そもそも門前氏といえば『建築屍材』で第11回鮎川哲也賞を受賞した作家であり、今回の作品は七年ぶりにようやく刊行された受賞後第一作ということになる。では著作数は現時点で二作かというと、そうではなく、他に第7回鮎川哲也賞の最終候補に残り翌年に自費出版で刊行されたマイナーデビュー作『死の命題』というのがあるのだが、これがまさに「怪作」としか言いようのない作品だった。残念ながらその版元(新風舎)が今年の年明け早々に倒産してしまい、また創元推理文庫から予告されていた文庫版もまだ出版されていない状況なので、現時点では入手が困難な作品なのだが、図書館に所蔵されていれば読むことは可能なので、「怪作」好きはぜひ探して読んでほしい。読めばわかるように、まったく無茶なアイデアを無理やり形にしたところが最大の特徴で、賛否両論はあるだろうが、その「賛否両論ある」ということ自体が「怪作」好きにはたまらないのである。

 その門前氏の新たな「怪作」が出たというのだから、読む前の期待感はいやが上にも高まる。

 物語は四つの断章から始まる。七年前に起きたハイジャック事件の被害者による回想、新興宗教団体の施設を監視している人物が目撃した不可解な出来事、市役所職員の男が知った上司の謎の行動、そして辺鄙な土地に建てられた宗教施設の様子と白骨死体の発見。続いて前二作でも活躍した蜘蛛手探偵の登場となるのだが、探偵が地方に調査に出かけている間に、ワトスン役の宮村が雪密室事件に遭遇してしまう。事件の背後には「奇蹟の光」というカルト教団の影が見え隠れしているのだが……。

 作中に盛り込まれた大きなアイデアは全部で三つ。どれも奇抜で面白いことは面白いのだが、うーむ、手放しで絶賛はできない。そのへんも含めて言えば「怪作」という評価は実に正しい。

 ミステリ作家には演出面で選択すべき大きな問題がある。謎と真相の間にある落差をいかに埋めるかということで、最後まで取っておいて一気にその落差を演出するか、それとも序盤から順を追って落差を埋めてゆくかという二極の間のどのへんに、自作を位置づけるかという選択であり、それは換言すれば「意外性」を取るか「納得性」を取るかという問題でもある。通常のミステリであれば、最後にどかんと一発大きな落とし穴に読者を突き落とすのが最善手であろう。しかし無茶なアイデアを中心に据えた「怪作」の場合には、その判断に迷うところがある。最後にいきなりその無茶な真相を提示しても、読者に受け入れてもらえないのではないかという心配がある。「意外性」を多少犠牲にしてでも真相の「納得性」を得たい。そういう判断もあってしかるべきだろうし、門前氏は今回の作品で、かなり「納得性」のほうを優先させているように思う。そうすることで、自身の思いついた「奇抜なアイデア」に対する読者の拒絶反応を幾分かは減らしている。その効果はたしかにあると思うし、作者の判断に異を唱えることはここでは差し控えたい。

 いろいろ書いたが、要するに今回の作品、何が引っかかったのかと言えば、真相がわりとミエミエなのである。三つある大きなアイデアのうちの二つ――教団が何を目的として活動していたのかという点と、大勢の人間をどうやって鍛錬場から消失させるかというアイデアの二つが、誰にでもすぐにわかってしまうような書かれ方がなされているのが、個人的には勿体なく感じられてしまうのである。

 ちなみにもう一つのアイデア――雪密室のトリックに関しては、「大地に跪き天に向かって祈るような格好」で被害者が発見されるという演出面も含めて、よく出来ていると思う。普通の読者ならば、この一点を本作の最も優れた点として評価するだろう。

 しかし私が個人的にもっとも感心したのは、勿体ないと感じた方のアイデアの一つ――大勢の人間をどうやって鍛錬場から消失させるかというアイデアである。原理的にはすごくシンプルなのに、こんなふうに応用することを考えつかなかったというのが、少しだけくやしかったりする(同時に、こんなの普通は考えつかないよ、あー常識人で良かったと、自分で自分を宥めていたりする)。

 たとえば黒田研二のデビュー長編『ウエディング・ドレス』が作中のあるトリック(メインではなくサブの方)だけで後世に残す価値があると評価されたように、本作もそのアイデア一つで後世に残すべき作品になっているように思うし、また何もしなくても自然と後世に残るだろうとも思う。

 変な「良識」のある人は読まないほうがいいと思う。きっと怒るだろうから。でも「怪作」好きの仲間にはぜひとも読んでもらいたい。

 こんな変なことを考えつく人がミステリ界にはいるんだよと、私は胸を張って本作を薦める。

[]週刊書評?回 08:32

壁に棲むエイリアン

『肺魚楼の夜』(谺健二/光文社)

 肺魚という魚がいることを初めて知ったのは、数年前、何かのTV番組でクイズ形式で紹介されているのを見たときだ。たしか「謎を解け! まさかのミステリー」という番組だったと思うのだが違っていたら御免。とにかくその番組で出されたクイズというのが、どこかの国で、ベッドで寝ていた男の上にある日、生きた魚が降ってきた、この謎を解けという出題で、密室状態の室内にいかに出入りしたかという本格ミステリでお馴染みの謎である。興味を持って正解VTRを確認したところ、実は壁の材料として使われていた日干し煉瓦の中に肺魚がいて、それが豪雨で煉瓦に水が染みて柔らかくなってきたところで目を覚まし、家の内側に飛び出したというのだ。肺魚という生き物がいることを知らない人間に、そんなの解かるかい!

 番組では肺魚についての説明が続く。泥の中で生きているその魚は、名前のとおり大気中でも呼吸できる肺を持ち、両生類に近い生態を持つ。さらに乾季になって沼地が干上がると、乾いた土の中で繭のようなものを作って一種の仮死状態となり、次の雨季までの期間を過ごすという。その繭をちょうど内側に含んだ形で干上がった沼地の土をブロック状に切り出し、壁の材料としたために、そういう事件が起きたのだ。その番組ではVTRだけでなく、問題の「肺魚の繭」を実際にスタジオ内に持ち込んで、水を掛けて肺魚が復活するところまでをスタジオ出演者たちに生で見せていた。けっこう大きな魚で、繭の状態だと一見化石のように見える。その形状がまずグロテスクで、どこかエイリアンめいている。化石のようなものだと思って見ていると、水を掛けられてしばらくしたところで、それがピクッと動いて、やっぱり生きてたんだ、このまま徐々に動き出して復活するのかと思いきや、ある瞬間、唐突にほどけたロープのように跳ねて暴れたように復活する。その予想外の動きも、どこかエイリアンめいていて、とにかく怖い魚だという印象がある。

 谺健二の四年ぶりの新作長編『肺魚楼の夜』は、タイトルに肺魚という単語が入っているように、その不気味な魚をめぐる幻想が作品のモチーフになっている。

 2004年の神戸。9年前の震災で両親を亡くした中学一年生の氷野真里亜は、NPO法人「星の家」の活動に参加し、独居老人との文通を始める。相手は冬景楼という洋館に住む岩威佐代。文通が始まって半年後。被災者の支援をしていたNPO法人に通報が入る。真里亜が冬景楼を訪れた夜、なぜか9年前の震災直後の世界にタイムトリップし、屋敷に戻ってくると今度は、壁から出てきた肺魚に佐代が首を絞められるのを見たと言う。被害者は病院に運ばれるが意識不明の重態。証人の持っていたレンズ付きフィルム(いわゆる使い捨てカメラ)には、震災で倒れたビルを背景にして真里亜が写っていた。本当にタイムトリップしたとしか思えない。さらに真里亜とやりとりした手紙の中で、佐代が奇怪な物語を綴っていたことが判明する。震災で同居していた娘と孫を亡くしたこと。当時高校生だった孫が肺魚を飼っていたこと。その肺魚が震災後に行方不明になっていたこと。巨大化した肺魚が屋敷の壁を出入りしていたこと。近所に住む女児を殺害したこと。その後しばらくの間は何も起こらなかったが、最近になってまた肺魚が活動を初め、またしても女性を殺害したらしいということ……。

 肺魚=壁から出てくる魚というイメージは、通常ではあり得ない。肺魚が壁から出てきたという事例は、現実世界ではおそらく一度きりしか起きていないのではないか。あるいは事件そのものが番組の作り話だったという可能性もある。肺魚という魚の不思議な生態を知った構成作家が、これはミステリのネタとして使える、密室状態の部屋に突如として生きた魚が出現するという形で見せれば本格ミステリっぽい謎の提示ができると考えて、エピソードを創作した可能性も捨てきれない(それだけエピソードが出来すぎだということ。でも出来すぎと思われるエピソードが現実に起こることもあるので、その判断は留保しておこう)。

 ともあれ肺魚が壁から出てくるというイメージは、通常であればまったく一般的なものではない。現実世界でめったに起こらない出来事が、TV番組で紹介されたことでイメージが増幅され、谺健二氏をはじめ多くの日本人に、肺魚=壁から出てくる魚という幻想を植え付けたのである。壁を突き破って出てくるシーンを想像すると、寄生主の胸を突き破って出てくるエイリアンの幼生体と、やはりイメージがダブる。

 ちなみに、その小説の登場人物もやはり、くだんの番組を見ていたという設定である。壁に住む肺魚を主題とした悪夢めいた物語は、どこか江戸川乱歩の通俗長編のような、古いタイプの探偵小説を思わせる。一方で、写真の謎は(タイムトリップという幻想をともなっているものの、それを外せば)社会派ミステリで扱われそうなタイプのものであり、また終盤で読者を混迷の極みへと突き落とす某アイデアは、新本格以降の流れがあってこそのものである。本格ミステリのいにしえから現在までの流れ。そこに阪神淡路大震災の後遺症というこの作者独自のテーマが加わる。物語の時制に選ばれた2004年初冬は、新潟県中越地震の直後である。「新潟」というキーワードは、さらに別の事件へと読者の連想をうながす。現実に起きたその事件の関係者――現実から目を逸らしつつ数年間を過ごしていたであろう、その老婆の生活にも、作者の想像力は及んでいたのではないか。それらのイメージが入り混じり、ある種幻想のごった煮状態となった本作には、良い意味で「怪作」の雰囲気が漂っている。

[]未発表原稿(週刊書評用に書いた) 08:32

アイデアマンの資質が光る

『踊るジョーカー』(北山猛邦/東京創元社)

 北山猛邦の新刊『踊るジョーカー』は「世界一気弱な名探偵」が活躍する連作短編集である。探偵役の音野順は、おそらく二十代の後半ではないかと思うのだが、社会性のなさはそこらへんの小学生にも及ばないレベルで、読者はワトスン役(というか音野のお守り役というか)の推理作家・白瀬白夜とともに、まるで「はじめてのおつかい」というテレビ番組を見るような気持ちで、彼を温かく見守ることになる。

 キャラクター設定からしても、そんなほのぼのとした雰囲気の連作なのだが、収録されている短編五作は本格ミステリとして見た場合でも、なかなかの出来である。特に『本格ミステリ08』に採られた「見えないダイイング・メッセージ」のアイデアには感心させられるものがあった。表題作でも、あるいは「毒入りバレンタイン・チョコ」でもそうだが、犯人の仕掛けたトリックには創意があり、よくこんなことを考えつくなと思わされる。「時間泥棒」のホワイダニットも、言われてみれば確かにと、納得のゆくものである。単行本化に際して唯一書き下ろしで追加された「ゆきだるまが殺しにやってくる」は、犯人の仕掛けたトリックよりも、動機に関するある種の勘違いが、とぼけた味わいを醸し出していて印象深かった。いずれも好編である。

 ところで、本格ミステリという小説ジャンルは、いろいろな素材を盛ることのできる器である。それはたとえば、田舎の因習であったり、都会の孤独であったり、洋館の不気味さであったり、探偵の格好良さであったり、男の友情であったり(やおい的なものも含む)、恋愛であったり、人間の怖さであったり、怪奇小説の要素、歴史小説の要素、時代小説の要素、エロスの要素、SFの設定――まあ言ってしまえば、ありとあらゆる素材が盛り付け可能なように見える(『踊るジョーカー』ではその器に、世界一気弱な名探偵という素材を盛っていた)。

 といっても、最低一つは必ず、それらしいアイデアを盛らなければならないという制約はある(それがないと本格ミステリではなくなってしまう)。「それらしいアイデア」というのは具体的には、意外な犯人とか、意外な動機とか、密室トリックとか、叙述トリックとか、まあ、種類はいろいろあるのだが、驚きと納得を同時に味わわせてくれるような、要するに「これが今回のオリジナルアイデアだ!」と主張できるものであり、それを毎回必ず盛り付けて、読者に賞味していただくというのが、本格ミステリ作家の、いわばアイデンティティになっている。

 驚きと同時に「納得」をもたらす上で必要なのが「合理性」である。本格ミステリ作家が思いついて披露するアイデアは、何より「理に適った」ものでなければならない。

 となると、必ずしも相性抜群とは言えない要素として、非現実的な設定のもとで物語が展開するファンタジー小説が、挙げられることになる(SFの設定も「非現実的」ではあるが、いちおう「理に適った」形で「非現実」を描いているのに対し、ファンタジーは「理に適った」という部分にそれほど気を遣っていない――というふうに、この小文では二つのジャンルを分けて使っている。従来のジャンル定義とは幾分異なるものかもしれないが、ご了承いただきたい)。

 本格ミステリの器にファンタジー要素を盛り付けることが、決して不可能だと言っているわけではない。でも相性は必ずしも良くないのだから、他の要素以上に、盛り付ける際には気をつけなければならないことが多くある、ということを言いたいのである。

 北山猛邦はアイデアマンである。次々に「それらしいアイデア」を思いつく才能がある。そういう意味では本格ミステリ作家としての資質に恵まれていると言えよう。しかし彼はもうひとつ、この現実とは異なった終末世界の美的・詩的な風景を描く才能にも恵まれている。その二つの才能が、彼の中でうまく調和しないどころか、むしろ反発し合っているように見えることが、過去の長編ではままあった。本格ミステリの器に、得意としているトリックと、これまた得意としている終末世界の風景を盛ってみたら、何だかしっくりこない結果になってしまったというか。

 本格ミステリとして必須とされている「それらしいアイデア」の要素は、毎回しっかりしている。『「クロック城」殺人事件』のメイントリックは絵的に忘れようのない鮮やかなものだったし、『「瑠璃城」殺人事件』では最果ての図書館における密室トリックと限界まで捻ったプロットが印象的だった。『アルファベット荘事件』では、空っぽだった箱の中にバラバラ死体が現れる冒頭のトリックもさることながら、本編で現場となる山荘の造りがそこで起こる事件のトリックと不可分だったという点で、島田荘司の『斜め屋敷の犯罪』を連想させる点がいかにも「それらしい」感じがした。圧巻だったのが『「アリス・ミラー城」殺人事件』と『「ギロチン城」殺人事件』で、たっぷりと盛り込まれた物理トリックに加えて、犯人の意外性の面でも信じられない離れ業を成立させていた。『少年検閲官』では数々の不思議な現象が、たったひとつのある要素によって成立していたというネタの揃え方が、ミステリ作家としてのセンスを感じさせた。

 一方で異世界設定の美的・詩的な要素も、各作品ごとに印象深いものがあった。『「クロック城」殺人事件』における終末の雨の風景、磁気嵐による情報世界の崩壊、ボウガンを武器とするゴーストハンター、ゲシュタルトの欠片といったガジェットは、独特の雰囲気を醸し出していたし、『「アリス・ミラー城」殺人事件』の酸性雨に蝕まれた世界の風景も、詩情を漂わせて記憶に残るものがあった。『「瑠璃城」殺人事件』では「最果ての図書館」といったネーミングや、六人の騎士や六本の短剣の存在、そして輪廻転生という独特の要素が、物語のカラーを決定していた。『少年検閲官』では地球温暖化によって海水面が上昇し、海辺の街が海中に没した情景が印象的だった。『アルファベット荘事件』と『「ギロチン城」殺人事件』ではそういった、作品内の世界全体を覆うようなファンタジー要素は見出せないものの、それぞれ「創生の箱」や「首狩り人形」といった独創的なガジェットが、作品内で存在感を示していた。

 問題はその取り合わせである。北山のデビュー作『「クロック城」殺人事件』では、異世界設定と事件のトリックが、そんなに深くは結びついていなかった。「クロック城」が現実世界にあったとしても、少なくともメイントリックに関しては、問題なく成立するはずである。その点が、本格ミステリ読者からすれば不満の残る結果となった。山口雅也の『生ける屍の死』や西澤保彦の『七回死んだ男』などの過去のSF設定のミステリでは、その作品独自の設定が、事件の謎や真相に深く関わっており、本格ミステリ読者からすれば、異世界設定を導入するならば、そこまでやってもらいたいという思いがあるのだ。

 北山の『「クロック城」殺人事件』のように、異世界設定とミステリ部分が必ずしも結びついていない例としては、山口雅也のキッド・ピストルズのシリーズが思い浮かぶが、あれは警察の地位低下によって探偵士やパンク刑事といった、現実世界ではあり得ない魅力的なキャラクターを活躍させる方便のようなものとして、読者との間に最初から共通理解が取れていたのだ。北山も旧弊な本格読者の不満の声など気にせずに、独自の路線を進んでいけば、そのうちに「そういうもの」として、読者との共通理解が得られていたかもしれない。

 しかし北山猛邦はその後、異世界設定とミステリ部分を強引に結び付けようと模索し始める。『「瑠璃城」殺人事件』のような成功例もあったが、逆に強引な両者の統合が結果的に無理を生じさせて、作品の瑕となって顕れてしまった場合もあった。たとえば、日本は国土に対して人間が多すぎるから、というのが無差別連続殺人事件の動機だったと説明されても、本格ミステリの読者はそれだけでは納得しないだろう。確かに動機としてそれは新しいかもしれないが、実際にはその行為によって満足のいくレベルにまで日本の人口が減るとも終われないし(焼け石に水でしかないし)、そういった不能性からすれば一種の「狂人の論理」の類になるのだろうが、「論理」としても抽象的すぎて実感がなく、普通の「無動機殺人」とさして違わないものとして読者には受け取られてしまうだろう。それと似た形で、異世界設定とミステリ部分とを強引に結びつけた作品が北山にはあるが、やはり読者には充分な納得感を与えられていないように思う。また異世界設定自体が充分な合理性を確保しておらず、ミステリ部分との結びつきの(肝心のネタの)部分にも曖昧さが残っていたため、両者の結びつきが結果的にミステリ部分の足を引っ張る仕上がりになってしまった作品もあった。自分の持つ二つの優れた才能をひとつの作品に結実させるのに、北山がこれほど手間取り、苦労することになろうとは。私は一読者として、実に歯痒い思いを抱き続けてきたのである。

 そうした中、著者初の短編集として刊行された『踊るジョーカー』は、異世界設定を一切封印し、読者が暮らしている現実の「この世界」を舞台にしている点が特徴的であり、結果、本格ミステリとしては実に納まりの良い作品に仕上がっている。終末世界の風景を描くあの才能を、どういった形で見せていったら良いのかについては、今後も模索を続けていってもらうとして、その一方で、アイデアマンとしての才能をこういった形で活かしてゆくというのは、作家として得策なのではないかと思うのである。

 そんなわけで、私は今回の路線を支持しているのだが、同時に、講談社ノベルスで既に予告されている次の新刊『「石球城」殺人事件』はどんな内容だろうかと、そちらのほうもすでに気になっているのだった。

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