市川尚吾の蔵出し

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2009-03-07e-NOVELS原稿4

[]週刊書評161回 08:31

活弁の挑戦者

『密室に向かって撃て!』(東川篤哉/光文社カッパノベルス)

1.あらすじ

 砂川警部と志木刑事のコンビが、傷害事件の犯人を取り押さえようとして失敗、そして改造拳銃一丁が闇に消えた。現場を通りかかった市民が拾ったものらしい。銃弾はまだ六発残っていたと思われる。その銃がまた別な犯罪に使われるのではないか。刑事たちが危惧していたとおり、やがて馬ノ背海岸でホームレスの射殺死体が発見される。残る銃弾は五発?

 事件捜査のために海岸の現場を訪れていた探偵助手の戸村流平は、岬に建つ十条寺屋敷の住人と知り合いになる。その縁で、鵜飼杜夫探偵は、十条寺家のお嬢さんの花婿候補三人の身辺調査という仕事を承る。一ヵ月後、調査結果を携えた鵜飼探偵と流平は、屋敷を訪れる。

 そして事件は夜になって起きた。覆面をつけた怪人物は、まず本館で銃を撃った。逃げた先は岬の突端に建つ見晴らし小屋の方向。袋の鼠状態である。さらに三発の銃声が鳴り響いて、屋敷の住人と客たちが駆けつけたとき、そこには銃殺された死体がひとつと、空の拳銃が一丁、残されていただけで、犯人の姿はどこにも見当たらなかった……。

2.読みどころ

 今回は特に謎の見せ方がシンプルである。

 本格ミステリの作者からすれば、いや、読者からしてみても、作中で提示されたすべての謎が、解決編までずっと謎のまま引っ張っていってくれれば、それがベストなのだろうが、昨今の読者はスレていて、なかなかそう簡単には騙されてくれない。

 というわけでこの作者は、ぜんぶの謎ではなく、一部の謎で勝負するようなところがある。犯人の正体は、読み進むうちに、だいたい見当がついてしまうかもしれない。でもそこはこの作品の勝負どころではない。それは謎解きの順番を見ればわかると思う。

 問題は銃声のパズルだ。解けそうで解けない。そして正解を聞くと、ナルホドと思う。

 詰将棋の問題で、初手から飛車をタダで捨てるというものがある。おいおい大丈夫かというような。しかしそれが最後に効いてくる。それしか王様を詰ます手順はないということが、検証してみるとよくわかる。うーん、それは思いつかなかった。意外だ。というようなもの。それに似た鮮やかさがある(ただし問題の難度は、詰将棋でいえば五手詰め程度。初心者にはちょうど良いが、マニアには少し物足りないかも)。

 もう一点。伏線の張り方が勝負どころとなっている。おっ、これは伏線だな、とすぐに気づくように書かれているが、読者にはその意味がわからない。でも真相が明らかになってみると、ナルホドと思う。そういう伏線の書き方が一方であり、また一方では、ああナルホド、あれが伏線だったんだ、と読者が感心するような張り方がある。特に後者がこの作品のポイント。

 本書を読み終わって、犯人もトリックもだいたいわかったぜ、へへん、と勝った気になっている読者は、驕りすぎである。あの伏線をそれと見抜けなかった人は、勝ち誇れない。せいぜいが引き分けである。

 そのあたりの難度の設定が、とても良い具合だと思う。

3.持ち味の分析

 本書は東川篤哉の二作目の長編である。

 デビュー長編は『密室の鍵貸します』(光文社刊・新書版)で、光文社の新人発掘プロジェクト「カッパ・ワン」のリリース第一弾として、二〇〇二年四月に刊行された。このときに、加賀美雅之、石持浅海、林泰広も同時に長編デビューしている。

 本格ミステリ系の新人が同時にデビューしたということで、この四人は何かと比べられることになると思うのだが、四人の中では○○が一番だ、という言い方をしたときに、加賀美、石持、林の三人の名前を挙げる人はそれぞれある程度はいたのに対して、東川の名前を挙げる人はそれよりも少なかった(いなかったわけではない)。

 加賀美の持ち味はトリックとゴシック趣味、石持はリアリティとバランス感覚、林はイリュージョンマジックの幻想性と、それぞれ本格ファンに支持されやすい特長があった。

 東川も、本格ミステリとしての作り込みでは、他の三人に負けていないと思う。ただ、それに付加するべき特長を、他の三人と同様に挙げるとすれば、ユーモア感覚ということになると思うのだが、本格ミステリとして評価する上では、加点ポイントとはならなかった、それで割を食ったのかもしれない、などと思う。

 私自身、カッパ・ワンの段階では、正直に言うと、四人の中では加賀美雅之のトリック&ゴシック趣味が、いちばん気に入ったのだが、しかし作風の違う四人を、誰が一番だ、二番だ、と比べることには、あまり意味がないだろう。東川篤哉には東川篤哉の良さがあるのだ。

 我孫子武丸の初期作品のような味わいがある、と言えば、わかってもらえるだろうか。

4.語り口についての小論

 東川作品を読んで、語り口に違和感を感じている人がいたら、以下を読んでいただきたい。

 最近の国産ミステリは、書き方が画一化されてきているように思う。一人称を用いるか、あるいは三人称を用いる場合でも単一視点を貫いて、読者が主人公に感情移入して読めるような、そんな書き方が主流となっている。

 もちろんそれは読み易いだろうし、特に問題はない。でもだからといって、それ以外の書き方をしてはいけない、などということはまったくないのである。小説というのはもっと自由度を持った表現形式であるはずだ。

 したり顔をした読者が、視点のブレがある、だからこの作者は文章が下手だね、みたいなことを言っていると、ちょっと待てと言いたくなる。それは上手い下手の問題ではない。そういう技術的な問題ではまったくない。単にどういうスタイルを選択するかという、好みの問題だけなのである。海外ミステリでは同一章中での視点の移動などはよくあること。国内作品でも少し昔の作品になると、たとえば小峰元なんかは、だいたいそういう書き方をしている。それのどこが悪いのか。

 とにかく上手い下手の問題ではないのだ。単に好みの問題なのだ。という主張はさておき。

 読者が偏った読み方をしているうちに、それと異なるスタイルで書かれたものを(中身は面白いのに)受け付けなくなってしまったのだとしたら、実に勿体ないことだと思う。

 たとえば、横溝正史のあのスタイルが受け付けられないのだとしたら、その勿体なさもわかってもらえると思うのだが。あの「知るよしもなかったのである」みたいな独特な言い回しは、作者が地の文に出てきて説明しているわけで、最近の一人称(あるいは一人称的三人称)の語り口にしか慣れていない読者には、もしかしたら違和感があるかもしれない。でもあれはあれじゃなきゃダメなのである。

 講談師のように。あるいは活動弁士(無声映画を上映する際に、映画館でナレーションをつけていた人)のように。諸星大二郎のマンガ『西遊妖猿伝』でも、講釈師が張り扇をパンパンと張りながら語るという、妙な額縁部分があったのを思い出す。

 それは語り口の伝統的なスタイルのひとつなのである。江戸川乱歩しかり。あるいは最近の作家で言えば、芦辺拓もしかり。

 そして東川作品にも、作者が地の文で張り扇をパンパンと張るような、そんな語り口が、ところどころで使われている。

 私は画一化を嫌う。いろんなバリエーションがある状態を好む。ファッションにしろテレビ番組にしろ、もっといろんなスタイルがあっていいと思う。出演者のセリフをいちいち大きな文字にして画面に出さなくてもいいだろう。CMの前後で同じシーンを繰り返さなくてもいいだろう。そういう番組がひとつ当たったからといって、みんながみんな同じスタイルを採用するのでは、却ってつまらなくなる。

 みんながみんな、一人称(あるいは一人称的三人称)を採用している今、その流れに乗れば問題なく受け入れられるだろうに(勘違いした読者から「下手だ」とか言われないだろうに)、あえて「作者がでしゃばる」語り口を採用して、そこにユーモラスな文体を絡めて勝負しようとしている東川篤哉を、私はだからこそ応援したいと思っている。

[]週刊書評175回 08:31

屑か破壊か創造

『九十九十九』(舞城王太郎/講談社ノベルス)

1.屑(Junk)

 私の場合、舞城作品から受ける印象を1ワードで言い表すと「Junk」になる。

 Junk【名】

 1.がらくた, くず物 《古鉄・ほごなど》

 2.《口語》 くだらないもの

 3.《俗》 麻薬; (特に)ヘロイン

(New College English-Japanese Dictionary, 6th edition (C) Kenkyusha Ltd. 1967,1994,1998)

 舞城作品を読んでいるとハイになり、一度その感覚を味わうと病み付きになる、というところで、3の意味でならば、うなずいてくれる人は多いのではないかと思われるのだが。

 問題は1と2の意味であろう。この点に関しては少し説明を要する。私は別に「舞城作品は屑だ」「くだらない」と思っているわけではない。

 私が「屑だ」という印象を受けるのは、彼の作品そのものではなく、作中で使われているミステリ要素であり、特にその使われ方(扱い)なのである。

 普通のミステリであれば、作者は謎を提示したあと、その魅力で物語をできるだけ長く引っぱって引っぱって引っぱり倒して、最後の最後になってようやく解決するというのが常であろう。ところが舞城作品においては、謎は提示された途端にサクッと解決されてしまうことが多い。ミステリであれば丁重な扱いを受けるべき「謎-解決」のセットが、彼の作品では使い捨て感覚で浪費されている。その扱いに「屑」性を感じるのだ。

 扱いばかりでなく、ネタそのものも屑であることが多い。彼の作品に頻出するミステリ要素に「見立て」があるが、「謎-解決」のセットで検証してみると、「謎=意味不明に装飾された死体」に対して「解決=実は何々の見立てでした」で終わっていることが多いのだ。通常のミステリであれば、そこから当然「何のためにそんな見立てをしたのか」という「謎」がまた新たに派生し、それに対して納得のゆく解決があって初めて、「謎-解決」のセットはまっとうされたことになるはずなのに、舞城作品にはそれがない。「謎-解決=新たな謎-解決」となるべきところが「謎-解決=新たな謎」と、最後が「謎」で終わってしまっているのだ。

「謎」は換言すれば「意味の喪失」であり、「解決」は「意味の付与」だ。舞城作品ではそのサイクルが「意味の喪失」で終わってしまっている。だから彼の「見立て」は「無意味」な印象を残す。「屑」な印象を残す。

 そんな「屑ネタ」で飾られていながら、作品そのものは輝いている。そこで思うのが「ジャンクアート」という言葉。日本語でいえば「くず鉄芸術」ということになるのか。そちら方面には疎くて、具体的な作品は知らないが(あるいは知らないからこそ以下のようなことが言えるのかもしれないが)、私は、舞城作品にはその「ジャンクアート」という呼称こそがふさわしいように思うのだ。

 あるいは「アート(芸術)」という言葉が不適切であれば(私は「芸術=高尚」という意味合いで使っているつもりはさらさらないのだが)、上の「ジャンクアート」は「ヘタウマ」と言い換えてもいい。巧い絵を描くことができるだけの技量がありながら、わざとヘタな(デッサンの狂ったような)絵を描くこと。それで「ヘタさ加減が巧いなあ」と思わせること。

 そんな「ヘタウマ」の手法は、マンガの領域ではすでに市民権を得ているが、小説の領域で(それも本格ミステリの周辺で)それを狙ってやっている作家は、まだほとんどいない(ただ単に「ヘタ」なだけの作家ならいるのだが)。「ヘタウマ」手法で成功しているのは、現時点では舞城作品以外に、(やや方向性は異なっているが)麻耶雄嵩の『夏と冬の奏鳴曲』があるくらいか。意図的にデッサンを狂わせ、バランス感覚を欠いた「屑」要素に満ちた物語を書いていながら、それで商品になるというのは、並大抵のことではない。

2.破壊(Destruction)

 舞城王太郎の新刊『九十九十九』は、JDCトリビュート作品である。「JDCトリビュート」というのは、清涼院流水の「JDCシリーズ」(『コズミック』や『ジョーカー』など)に捧げた作品、という解釈で良いのだろう。すでに西尾維新が『ダブルダウン勘繰郎』という作品をものしており、大塚英志原作による漫画作品も雑誌に連載されているらしい。

 そこからJDCシェアワールド作品(「JDC=日本探偵倶楽部」という組織が存在する世界観を、既刊の清涼院作品と共有するもの)だと勝手に思い込んでいたのだが、しかしあまりにも個性の強い舞城王太郎が、他人と世界観をシェアした作品を、そうそう簡単に書けるはずもなかったのである。

 なるほど、主人公の名はタイトルどおり「九十九十九(つくもじゅうく)」である。九十九十九といえば、清涼院の設定するところによれば、世界に七人しかいない「S探偵」のひとりであり、探偵がうじゃうじゃ登場するJDCシリーズの中でも特に重要度の高いキャラである。持ち技は「データが出揃うと真相を悟る」という「神通理気」。サングラスを外すと、その美しさゆえに人々が失神してしまうという属性も併せ持つ。

 今回の舞城作品はその九十九十九の一人称を採用しており、なんと彼が生まれたところから始まる。生まれたばかりの「僕を抱えていた看護婦と医者が失神して、僕はへその緒一本でベッドの端から宙吊りになった」という冒頭は、清涼院のキャラ設定をなぞりつつ、すでに舞城的ホラ話が始まっている感があって、実によろしい。

 しかしこの九十九十九は、微妙な言い方になるが、私たちが清涼院作品を通じて知っている、あの九十九十九ではないのだ。今回、舞城が作中に登場させた九十九十九は、しかし元々は流水大説の作中人物でもあるわけで、二人の作者に所有されているというその矛盾こそが、実はこの物語を動かす原動力にもなっている。舞城作品の中に清涼院流水という作中人物が出てきて、その(小文字の)清涼院がこの九十九十九の物語を書いていれば、それで矛盾は一見解消されたように見えるが、しかしその作中作を読む人物もまた必要で、主人公は九十九十九なのだから彼が読むよりほかはなく、じゃあその(作中作を読んでいる)九十九十九は誰の所有物なのだろうか……。

 そこからメタ構造の無限連鎖が生まれ、また舞城もそれでようやくいつものように(あるいはいつも以上に)自由に執筆することができるようになる。しかしその構造は、清涼院のJDCシリーズの世界観(で今回は書かれているのだという読者の期待)を破壊し、物語の進行とともに自分で前に書いた部分を作中作として葬り去り、終いには時間軸(物語の進行)さえも破壊してしまう。

 そんな破壊的なエンジンをこの物語は搭載している。

3.創造(Creation)

 しかし作者が破壊しているだけでは物語は決して成り立たない。舞城の行う「破壊」の裏には必ず「創造」が秘められているのだろう。

 そういう視点で見直せば──たとえば『世界は密室でできている。』には、身体じゅうの発疹から丸い粒々がぽろぽろと出てくるという「無意味」なエピソード(破壊行為)があるが、そんな「無意味=屑」な要素を孕みつつも、私たちがそのエピソードをあるがままに受け入れてしまうのは、その粒々の最終的な使われ方に、私たちが「意味」を見出しているからなのではないか──ということに気づかされるのだ。「粒々」自体は無意味だが、それを用いたエピソード自体には最終的な「意味」が付与されている。友人に対する無償の「愛」。私たちはそれを見て感動し、納得してしまう。物語性がそこで「創造」されている。

 あるいはまた、私は上で、舞城作品の「見立て」を「屑」要素であり「無意味」だと論じていたが、なぜ犯人はそんな「見立て」をするのか、という問いを、なぜ作者は死体をそんなもの(ホッパーの絵など)に見立てるのか、というふうにずらしてみれば、そこには「答え=意味」が見出せてしまうのだ。たぶん舞城はホッパーの絵が好きなのだろう、というふうに(この憶測は外れているのかもしれないが、私たちはついそんなふうに最終的な「意味」を見出して、納得してしまっていたりする)。その「好き」という想い(=愛)が読み取れるからこそ、舞城の「破壊」行為は読者のもとで「創造」行為へとすり替えられ、許されてしまう。

 というわけで、舞城王太郎はミステリ要素を含め、いろいろなものを自作内で破壊し尽くした挙句、そこに臆面もなく「愛」という「意味」を「創造」して物語を構築してしまうという、おそるべき技をすでに体得していたのだった。

 と書いた直後に前言撤回。舞城は決して「臆面もなく」やっているわけではない。「愛」するものの「創造」には必ず産みの苦しみが伴っている。そのはずだ。

 たとえば今回の「JDCトリビュート」という趣向にしても、清涼院作品への「愛」があればこそ、その産みの苦しみは尋常のものではなかったと想像されるのだ。九十九十九というキャラは、もともとは清涼院流水の被創造物であった。それを今回、自分のキャラとして書くためには、舞城はそれを自分のお腹から産み直さなければならなかったのである。

 そこまでしても「それ」を「創造」したいのだという想い。私たち読者は、まだ体液に濡れ、ビニール袋に包まれた「その本」を差し出されている。読む/読まないは各人の自由な判断に任されているが、いったん読み始めたら、作者のその想いは、責任を持って受け止めなくてはならないだろう。

[]週刊書評192回 08:31

矛盾のない夢

『目を擦る女』(小林泰三/ハヤカワ文庫JA)

1.夢の話はつまらない

 自分が見た夢の話を僕にしてくれる人というのがときどきいるが、たいていはつまらないものである(たまに興味を惹かれるケースもあるが、それは話し手が僕にとって気になる女性であり、かつ「そこでねえ、お弁当売りが出てくるんだけど、それがなぜか市川君なのよ」という感じに、自分が登場している場合に限られていて、さらに言えば、僕が興味を惹かれるのも、うーん、それは深層心理的にどういう意味があるんだろう、もしかして彼女は僕のことがけっこう好きなんじゃないだろうか、などと考えさせられるからであって、夢の内容自体が面白いわけではない)。

 なぜ他人の見た夢の話は、僕にとってつまらないのか。

 夢自体が本来的につまらいものである……というわけでもない。実際、今日は面白い夢を見たなあ、と自分で思うことはしばしばあるのだから。ただそれを他人に語っても、相手は自分と同じようには面白がってくれない、というだけのこと。

 たぶんそれは、夢の面白さの主要因が「変であること」だからなのだと思う。それも内容自体が面白いのではなく、自分がそんな変な内容の夢を見るということ――理性的な存在であるといつも自覚しているはずの自分が、眠ってタガが外れたときにはこんなに「変」な夢を紡ぎ出してしまうということが――つまり、夢を見せているのも自分なのだ、という認識が根底にあり、その自分に内在するプロセスの不思議さが、自分で面白く感じられているのではないかと思うのである。

 でも他人の見た夢の話の場合には、そういうプロセスの介在する余地がない。だからせいぜい「もし自分がそういう夢を見たら、面白いと感じるかもしれないなあ」というレベルで共感を寄せるにとどまってしまうのである。

2.フィクションで夢を扱う場合

 夢の面白さとは、内容にあるのではなく、そういう夢を見させる自分の中の、コントロール不能な部分の神秘性にこそ、根ざしているのである。

 だから小説の中で夢を題材として扱う場合でも、単純に、登場人物がこういう夢を見た、というふうに、その内容が語られるだけでは、たぶん面白くないのだろうと思う。

 夢の面白さとは、イコール、夢を見ることの不思議さに他ならないのだから。それを語らなければ。

 そのひとつとして、夢を見ている最中には「これは夢だ」という自覚がないことが多いのに対して、夢から覚めたときには「あれは夢だった」という認識が常にあることが、挙げられるだろう。起きているときには夢と現実の区別がつくのに、夢の中にいるときには、その区別がつかないということ。

 小説が夢を題材とする場合には、たとえばそういう面白さ(不思議さ)に注目して、その面白さ(不思議さ)を論じたり、あるいは再現するような試みが、なされるべきなのである。

 そして「仮想現実」を題材にしたフィクションは、おのずと、そういう問題を扱うことになる。

3.仮想現実の分類

 ちなみに、仮想現実を扱ったフィクションには、いくつかのタイプがある。

 第一のタイプでは「リアル体感型ゲーム機」のようなものが出てきて、主人公は小説の中で問題の機械に入り、仮想現実を体験し、機械から出てきて現実に戻る、というのが主筋となる。

 このタイプの仮想現実を扱った小説のキモは、途中で現実と仮想現実との区別がつかなくなるところにある。自分が機械から出たことは覚えているのだが、それがもし機械によって作り出された偽の記憶だったとしたら、自分の本体はいまだに機械の中にいることになるわけで……という仮説を否定できない不気味さが、面白く感じられるのである。

 ちなみに、このタイプでは、必ずしも「リアル体感型ゲーム機」が出てくるとは限らない。脳をいじる場合もあるだろうし、あるいは単なる夢であっても、書きようによっては、同じような面白さが味わえることがあるだろう。とにかくポイントは、仮想現実のシステム自体に「自分が仮想現実から戻ってきたのか、それともいまだにそこにいるのか」が判別不能になる要素が潜在している点にある。

 第二のタイプは、ある意味では第一のタイプと非常によく似ている。違いは、主人公に「自分が機械の中に入った」という記憶がないところ。だから主人公は、物語の序盤では、生まれたときからずっと自分がいる「ここ」を、現実だと認識しているのである。ところがひょんなことから「ここ」が仮想現実空間であると認識してしまう……というところで、数年前に大ヒットした某映画を思い浮かべた人もいるかもしれないが、まさにそのとおりで、例のアレは典型的なこのタイプの作品なのである。

 このタイプの作品のキモは、第一のタイプとは違って、読者にも影響を及ぼしうる点にある。主人公には「そういう怪しげな機械に自分が入った」という記憶はない。読者も同様であろう。それなのに主人公は、物語の中で、自分が生きてきた「ここ」が、実は仮想現実空間だったと知らされるのである。同じ理屈は、読者である自分にも、適用できてしまうではないか。もしかして自分も、本体はどこかの機械の中にあって、この現実を夢見ているだけなのではないか――という空想を、第二のタイプは可能にする……というよりも強要する。それこそが主目的であり、そのために第一のタイプから進化した、と言えるようにも思うのだが、それとは別に、もっと古くからある哲学的な問題を、わかりやすい形で見せているだけ、と言うこともできるかもしれない。

 第三のタイプは、読者に及ぼす効果の点では第二のタイプと同じなのだが、それをもたらす原理のほうが違っている。

 科学の発達によりコンピュータが実用化され、今ではその中にAI(人工知能)やAL(人工生命)が作り出されている。それを前提として、次のように思うところから、このタイプの原理はスタートする。――もし、こいつら(AIやAL)に自意識があったとしたら、こいつらは自分の存在しているコンピュータ内部の仮想空間(磁気や電子の符号の集積であり、実体は持たない)を「現実」と認識しているのだろうな……。

 ところがそれを、自分の身に置き換えてみると。

 もしかしたらこの現実世界も――オレが「現実世界」だと認識している「ここ」も、実はどこかのコンピュータのメモリ上に符号の集積として存在しているだけの、つまり実体のない存在なのかもしれないぞ。そしてもちろん……オレ自身も。

4.自分が仮想的存在であるかもしれないということの衝撃

 ちなみに「もしかしたらこの現実世界も、そして自分も、実はどこかのコンピュータのメモリ上に符号の集積として存在しているだけのものなのかもしれない」という仮説は、科学的に否定することができないのである。

 仮説そのものと同時に、この「仮説が否定できない」という事実は(人によっては「ふーん、それで?」で済ませられる問題かもしれないが)、科学というものの限界のひとつを、誰にでも関わりのあるような形で示すことができているという点において、非常に興味深い問題として、僕には感じられるのである。

 僕の場合には特に、自力でその問題に辿り着いた、という事情が大きいのかもしれないが、とにかく、AL関連の本を読んでいるときにだったろうか、ふとその問題に思い至ったときには、コペルニクス的転回というか何というか、とにかく僕は、その事実に大いなる衝撃を受けたのである。

 それからまだ十年は経っていないと思う(三十代でそのことに思い至るというのは、たぶん遅いほうなのだろうが……)。とにかく自分史の中で、子供時代からいくつもの衝撃的事実を知らされてきて、そのたびに僕は賢くなってきた(と自分では思っている)わけだが、大人になってからはそういう経験もほとんどなくなってきた中で、まだこんな衝撃的事実が残っていたのか、というふうに思ったことは覚えている。

 小林泰三が「その事実」に気づかされたのが何歳だったかは知らないが、たぶんそのときには僕と同じように大いなる衝撃を受けたのではないか……と想像するのは、礼を失しているだろうか。

5.というわけでようやく本題(でも書きたいことはもうあらかた書いてしまった)

 小林泰三の新刊『目を擦る女』は、ノンシリーズの短編集である。収録されている短編は七つで、お互いに関連性はない……のだが、一冊の本として見た場合には、顕著な特徴がある。

 仮想現実をネタにした話が多いのである。過半数を占めている。僕が「小林泰三が(略)衝撃を受けたのではないか」と想像したのも、それがためである。

 普通に考えれば、一冊の短編集に同じネタの作品がいくつも収録されるのは、利点よりも欠点のほうが多いように思える。本作で唯一の書き下ろし作品である(つまりどんな作品が短編集に収録されるかという、そのラインナップがわかった上で書いている)「未公開実験」という作品の中で、登場人物のひとりに「どうでもいいけど、仮想現実ネタばっかりだと、そのうちに飽きられるぞ」と言わせているほど、著者もそのことに関しては自覚的であったりする。

 しかし利点もある。同一ネタの多用は、でもほら、同じネタを使っていても、たとえばこんなこともできるし、あるいはこんなことも……という「ネタ縛り」の芸として見せることもできる。そういう見地に立てば、むしろ、収録作のすべてをそれで統一すれば良かったのに、とさえ思えてしまう。

 そして、その繰り返し芸を見物しているうちに、僕の脳は変なふうに刺激を受けて、この雑文の前半に書いたようなこと(仮想現実の分類など)を考えさせられるに至ったのである。この文章を読んでいる人がどう思うかは知らないが、少なくとも僕は今、非常に気分がいい。自分が知的な人間になったような気分がしているのだが、それもこの本のおかげなのである。

 もうちょっとだけ補足しておこう。

 僕の中で小林泰三は、あのロバート・J・ソウヤーと同じ地位を占めている。持ち球の種類が豊富で、その作品のどれを読んでも「外れ」がない。それぞれに知的な試みがあり、何より滅法面白い。というわけで、僕にとっては最高位に属する作家のうちのひとりなのである。

 一人でも多くの人に、この作品集を読んでもらいたいと思う所以。

[]週刊書評249回 08:31

ワンルーム・ミステリの輝き

『セリヌンティウスの舟』(石持浅海/光文社カッパ・ノベルス)

1.あらすじ

 スキューバダイビングを趣味とする児島は、都内のダイビングショップが企画した石垣島ツアーに参加した。ツアー客は全部で六人。顔は見知っていたものの、たいして親しい間柄ではなかった。しかし海上でアクシデントが発生し、ボートを見失った六人は、荒れ狂う波に翻弄されながら、全員が互いの救命胴衣を掴んで輪になり、救助を待つこととなった。その永遠とも思える時間が、彼らを特別な絆で結びつけたのだった。

 そして二年後。六人はときどき集まってはダイビングを楽しみ、最年長のメンバー・三好のマンションで宴会をし、雑魚寝をするという楽しい時間を共有してきた。それなのに――メンバーのひとり、米村美月(みっちゃん)が自殺を遂げたのだ。六人で雑魚寝をしていたときに。青酸カリを仰いでの中毒死。本人直筆の遺書も残されており、事件は自殺として片付けられた。

 しかし納骨式の後に三好のマンションに集まった五人は、そこで改めて事件の謎に直面する。毒薬の小瓶のキャップはなぜ閉められていたのか。謎はまた新たな謎を呼び、議論を重ねた結果、美月の死の真相は五人の手の届かない、はるかな深みに沈んでしまったかに思えたのだが……。

2.タイトルとテーマ

 本書のタイトルの「セリヌンティウス」は、太宰治の『走れメロス』に出てくる登場人物の名前である。メロスの親友だった彼は、メロスが王との約束を破って刻限までに帰って来なければ、代わりに死刑に処されるという人質(一種の身代わり)の立場に立たされる。

 主人公の児島は次のように言う。

「僕たちはセリヌンティウスなんだ」

 ここで児島たち(残された五人)がセリヌンティウスに喩えられるのは、わからないでもない。メロスは本人の了解を取らないまま、勝手にセリヌンティウスを自分の身代わりとして差し出すことを決めてしまったのだから。美月の自殺も五人からすれば、自分たちには何の了解も取られないまま、勝手に行われている。

 しかし児島が先のセリフに続けて言った、以下の発言はどうだろう。

「(承前)そしてみっちゃんはメロスだ。現在進行形のメロスとは違って、みっちゃんはもう走り終えた後だけどね。でも不思議なことに、僕たちはメロスが帰ってきたことを知っているのに、それに納得できないでいる。メロスを信じているし、実際に僕たちは生きているのに。(後略)」

 物語のこの段階で、メロスと美月のイメージを重ね合わせるのは、読者にとって困難を伴うのではないだろうか。

 約束を守るために走り抜いたメロスと、勝手に自殺してしまった美月。

 さらに言えば、『走れメロス』では、メロスかセリヌンティウスか、そのどちらかが死ななければならないという過酷な条件が二人に課せられていたのに対し、本書に登場する六人の場合には、特にそういった条件が課せられていたわけでもない。両者のストーリーを並べて見たときには、共通点よりも相違点のほうが目立っているようにも思う。

 それなのに主人公の口を借りて、作者がここであえて『走れメロス』の話題を持ち出したのは、ひとえに本書が「信頼の絆」をテーマにした物語であったからだろう。

3.不滅の絆はいかにして作られたか

 ところで身近な人間が突然自殺してしまったとき、後に残された人たちはどういった感覚にとわられるだろう。往々にして「どうして私に一言相談してくれなかったのか」などといった想いにさいなまれるのではないだろうか。

 そこにあるのは一種の「裏切られたような感覚」であり、そして自殺が「裏切り」に通じるのであれば、本書のテーマ「信頼の絆」との相性は最悪だと言わざるを得ない。「裏切り」と「信頼」とでは方向性がまったく逆なのだから。

 しかし本書では、作中で自殺事件を扱いつつ、六人が一貫して「信頼の絆」で結ばれているという、かなり無理のある状況を描こうとする。そのために必要とされたのが「絆」の特殊性である。

 まず一点。児島たち五人は美月の自殺を「裏切り」とは受け取らない。もし仲間内の誰かが美月から事前に自殺の意志を打ち明けられていたとしても、それがよくよく考え抜いた結果であれば、おそらくは本人の意思を尊重しただろうと、彼らは考える。

 家族であれば、あるいは親友であれば、本人の意思に逆らってでも自殺を思い止まらせようとするのが普通だろう。家族の絆も親友の絆も、お互いに生きていてこそ成り立つものである。一方で児島たち六人の「絆」は、生死の境を超えてもなお成り立っている。

 仲間の自殺を止めようともしないクールさとともに、生死を超えて成り立つ不滅性をも併せ持つ。六人を繋ぐ「絆」はかなり特殊なものであり、またそうでなければこの物語は成立しない。

 それを読者に納得させるために必要とされたのが、石垣島沖でのあの漂流体験だったのである。

 主人公の児島はその体験を「普通の人間が普通に暮らしている限り、生きるか死ぬかの状況に置かれるというのは非常に稀だろう」「ただの信頼ではない。一体感、それも自身の存在さえ共有してしまうようなつながりが僕たちの間にはできてしまった」と回想し、また自殺した美月も遺書に「他の何事にも代え難い、宝石のような体験」「おそらく最も愛する人と裸で抱き合ったとしても、あんな感覚は得られないでしょう」「世の中でいったい何人の人が、それほどの友達を持っているでしょうか」などと書き残している。

 そうした特殊な体験をしていない一般読者は、だからそれらの言葉を通して、彼らの間に生まれた「絆」を想像するしかない。

 観念的理解に達することは可能だろう。しかし実感するまでにはなかなか至らないのではないか。

 その点で、『月の扉』『水の迷宮』『扉は閉ざされたまま』といった過去の石持作品と同様、本書にも「登場人物に共感できなかった」等の批判が寄せられる危険性は充分にある。

 しかし、たとえそう感じられたとしても、それだけをもってして本書を低く評価するのは不当だと言わざるを得ない。本書には他に数々の魅力的な点が含まれているからだ。

4.密室劇の愉しみ

 本書の特長は「限定された舞台で限られた登場人物たちが、事件の真相を求めてひたすらディスカッションする」点にある。

 その特長は、ある部分では岡嶋二人の『そして扉は閉ざされた』や西澤保彦の『麦酒の家の冒険』などのミステリ小説を、また別なある部分では「裏窓」「ロープ」「ダイヤルMを廻せ」などのヒッチコック映画を連想させる。

 そう、本書は映画にしたら面白いのではないだろうか。あるいは「ダイヤルMを廻せ」がもともとそうだったように、舞台劇にしても面白いかもしれない。

 もし私が舞台化を担当したならば、本書を一幕ものの劇に仕立て直すだろう。舞台設定は孤島の別荘か何かにして、海が時化ていて本土の警察が到着するまでに数時間を要するといった外的状況を用意し、死体発見からすぐにディスカッション部分に移行して、最後の真相究明までを一続きの流れの中にまとめるのである。

 そうした想像が楽しいのは、舞台化に際して必要となる小道具類がほんとうにわずかしかないからでもある。大道具類はまったく不要。壁もドアも窓も何もいらない。ただのがらんとした舞台があればいい。舞台中央にダイニングテーブルと椅子。その他の家具類(ソファなど)はあっても無くてもいい。ただし扇風機は必要。あとは小物類。テーブルの上にはログブック(ダイビングの記録を綴るためのノート)と小瓶、そして床の上には宴会で飲み食いした残りの酒類や空コップやつまみなど(魚肉ソーセージは必須ね)。それだけあれば、あとは本書を元にして脚本を書き、六人の役者を用意して、会場を借りればもう上演が可能となる。

 逆に言えば、たったそれだけの登場人物・小道具類・小物類だけで、本書は成り立っているのである。あとは心理描写や登場人物の動きやセリフの応酬――すなわちディスカッション部分が物語の大半を占めている。

 これほどわずかな大道具・小道具・小物類だけで成立した本格ミステリが過去にあっただろうか。それは言葉を変えれば「推理の純度が高い」ということでもある。

 本書を評価する際には、まずはその点にこそ留意すべきであろう。

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