市川尚吾の蔵出し

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2009-03-08e-NOVELS原稿3

[]週刊書評120回 08:28

なぜか匡介

『本格ミステリコレクション3 楠田匡介名作選 脱獄囚』(著者:楠田匡介、編者:日下三蔵/河出文庫)

   1

 日下三蔵氏によるここ数年の多彩な復刊仕事の中でも、その企画を聞いた段階で一番ワクワクさせられたのが、この河出文庫の「本格ミステリコレクション」シリーズであった。第一期のマニアックなラインナップ(飛鳥高・岡田鯱彦・楠田匡介・鮎川哲也・島久平・鷲尾三郎)を見てほしい。個人的には、その中でも特にこの「楠田匡介」の巻に、異常なほどの期待を寄せていたのであった。

 なぜか。

 間羊太郎に『ミステリ百科事典』という本がある。これは古今東西のミステリの面白ネタをガンガンにバラしまくった凶悪な入門書(?)なのだが、そこに有名な「雪の犯罪」を含め、楠田作品からは4編のネタがピックアップされていて、その印象がおそらく強かったのだと思う。とにかく、この作者に対する「トリックメーカー」というイメージは、いつしか自分の中で固まっていた。しかし実際のテキストがなかなか読めない。『いつ殺される』と『都会の怪獣』は何とか入手して読んでみたものの、どうもピンと来なかった。イマイチその全貌が見えてこない作家であり、他にどんなものを書いているのか、何としてでも確かめてみたいと思っていたところに、その名作選が刊行されるというニュースが飛び込んできたのである。だからもうワクワクドキドキして待っていた。

 そしていよいよ刊行されたのがこの本で、わーい、と思って飛び付いてみたら、この巻は、著者お得意の「脱獄ミステリ」を集めたものだという。だ、脱獄ミステリ? 何だそりゃ。「雪の犯罪」や「妖女の足音」のような本格作品(しかも密室作品)を期待していたというのに、どうやらアテが外れたみたいだ。

 というのが本を手にした段階での第一印象。

   2

 しかし脱獄ミステリと言われれば、それはそれで期待できるかもしれない、と思い直す。

 脱獄をテーマとしたミステリという話になれば、乱歩編の『世界短編傑作集』にも採られているフットレルの「十三号独房の問題」が、いちばん有名であろう。あとは……ジャック・フィニイに『完全脱獄』ってのがあったはずだな。たしか。でも読んでいないぞ。ルブランのリュパン物にもきっとあるはずだ。しかしリュパン物も読んでいないのであった。まずい。あとは、デクスターの「エヴァンズ、初級ドイツ語を試みる」? ラヴゼイの『バースへの帰還』? ダニングの『深夜特別放送』? 申し訳ない。どれも読んでない。全滅だ。

 というわけで、小説ではダメダメだったけど、映画ならいろいろ見ているぞ。クリント・イーストウッド主演の「アルカトラズからの脱出」は、実話を元にした話で、派手さは無いけどサスペンス味たっぷりの演出が光る秀作だった。「栄光への脱出」という映画もあったな。ポール・ニューマン主演のやつではなく、シルベスター・スタローンが主演の方である(サッカーの神様ペレも出ていて、サッカーイヤーの今年に改めて見直すのもオツかもしれない)。ただこの映画では、肝心の脱走の手口が、あまり知的ではなかったというか、もっと言えば体育会系のノリだったというか、ともあれかなり強引だった憶えがある。さすがはスタローン作品。

 あと「パピヨン」「大脱走」「第十七捕虜収容所」といったあたりは、言うまでもない名作。戦争映画も混じっているが、逃げ出す場所が刑務所か捕虜収容所かってだけで、やることは一緒なので、まあそのへんは一緒くたにしちゃっても良いだろう。

 あと、アニメの「ルパン三世」にも、その手の話が幾つかあったはずである。個人的に憶えているのは、脱獄ネタではなくて逃亡ネタなのだが、次元がバレリーナだかオペラ歌手だか(<よく憶えていない。汗)と一緒に逃げる話。油断していたらミステリ的なネタが使われていて、ラストでけっこう驚かされたので、その印象が強くて記憶に残っている。

 脱獄とか逃亡とかという話になると、こんなふうに名作のタイトルがズラリと並ぶのである。ならばこの短編集も、きっとあの手この手の脱獄トリックを見せてくれているに違いない。何しろ作者はあのトリックメーカー楠田匡介なのだから。

 と思って読み始めたのだが、実際にはその予想もまた、的中していたとは言い難い結果に終わった。

   3

 14の短編が収録されていて、ミステリとして見た場合には、結末がやはり重視されるのであるが、そういう読み方をした場合、中には「ををっ」というものもあるのだが、「をいをい」というものもあって、レベルとしてはかなりバラつきがある。しかし小説としてどうだったかと問われれば、サスペンスフルな展開は強烈で、どれもこれも面白く読めた。だから「サスペンス+人情噺」が基調で、ときどきミステリ風味も味わえる、ぐらいに思って読むのが、いちばん楽しめるかもしれない。

 とりあえず一話目の「破獄教科書」を見てみよう。まず冒頭でガツンと来る。「脱獄できる/できない」で二人の収容者が賭をしている。で、いつまでに脱獄する? という話になり、その期日が設定されるのだが。

 一年と三ヵ月後。

 まずここで「おっ」と思わされる。実に悠長な賭である、というのは、我々の常識からすればの話で、しかし塀の中での常識は違うのだ。脱獄は一朝一夕ではできない。長い期間をかけて下準備をする必要がある。だから一年三ヵ月が妥当なセンなのである。これが塀の中の常識。という「常識」違いの部分で、まず読者にガツンと一発喰らわせる。こんな世界、お前ら知らないだろう、みたいに話を振られて、その一発で作中にグッと惹き付けられてしまうのである。

 で、主役の浅田八重という男、脱獄してみせると啖呵を切り、賭をしたのはいいんだけど、自分で特に具体的な策があってそうしたわけじゃない。そこで彼が頼るのが、同じ刑務所に収容されている白取の爺さんっていう名物男。日本一の脱獄王で、今までに数々の刑務所から脱獄を果たしてきた実績の持ち主。なので現在は独居房に入れられ、ちょっとでも目を離したら、その隙に何をやられるかわかったもんじゃない、というように、彼には終始監視の目が注がれている。その扱いが、ちょっと映画「羊たちの沈黙」のレクター博士を思わせるところがあって、このあたりの設定で、けっこう作者はハッタリをかましてくれているのである。で、読者の前に直接姿を見せる機会は少ないんだけど、この爺さん、やたら存在感があって、とってもカッコイイ!

 雑居房の浅田が、どうやってその爺さんと連絡を取るか。そして脱獄の道具をどうやって入手するか。計画の進行は亀の歩みのように鈍く、一年三ヵ月もあった期日は刻一刻と迫ってくる。このあたりのサスペンスフルな展開もうまい。楠田匡介って、実は文章があんまり上手くはないのだが、それが却ってこのへんの雰囲気を盛り上げてくれているようなところがあって、あとは結末まで一気呵成の面白さ。

   4

 他の作品も見てみよう。

 本格ミステリとして見た場合に優れているのが「法に勝つ者」。この中で使われているネタはちょっとしたアイデアで、さすがは楠田匡介、トリックメーカーの面目躍如といったところ。あと一点、思ったのが、この作中では、めちゃくちゃ気長な犯罪計画が練られるのだが、だいたい脱獄というのがそもそも、下準備の段階からずっと辛抱を強いられるものなので、普通だったら「そんな気長に仕掛けられるかよ」と思ってしまうような、もの凄い執念深い計画犯罪であっても、脱獄囚だからと言われると、これが妙に説得力があるように思えてしまう。そうやって、粘着質な計画犯罪がオールオッケーになってしまうというのが、脱獄ミステリのひとつの特長であると、言えるのかもしれない。

 他に本格テイストを感じるものとしては、「沼の中の家」がある。ネタはちょっと強引かもしれない──というか、今のルールからすればちょっとアンフェアかもしれないが、面白いからまあ許してしまおう。

 少年を主人公に据えた「上げ潮」にも、本格ミステリ的なネタはある。しかし同じ少年モノなら「熔岩」の方が個人的には好み。後者は本格じゃなくて、人間ドラマの秀作といったところ。保護司の目から見た不良少年の悲劇、みたいな話なのだが、この主人公が、本当に可哀想なのである。ラストシーンは思いっきりベタなシチュエーション&展開なんだけど、それがまたいいのだ、この作品の場合には。

 不良少年がいれば不良少女も当然いるだろう。というわけで「不良少女」というタイトルの作品もある。この作品は出だしで「おっ」と思わされた。ネタがどうのこうのではなく、主人公の塙美津子という少女の心の動きが、想像だけではなかなかこうは書けないだろうと思わせるものがあって、感心させられたのである。あとこの作品で言えば、岬の上の女子学園という設定の美しさも、個人的には好ましい印象をもたらした一因でもあった。

 まあ、ざっと見ただけでもこんな感じで、同じ「脱獄ネタ」とはいっても、見せ所は各話で違っており、非常にバラエティに富んだ内容になっているのだが、でもやっぱり一番萌えるのが、あの手この手の脱獄計画をメインの見せ所にした話であろう。「ある脱獄」では、日本のカポネと呼ばれた男の脱獄に賭ける執念が丹念に描かれていて、これでもかこれでもかと脱獄ネタが盛り込まれてるのが見所。最後のセリフが、これがまたピリッと辛味が効いててイイ感じ。「不良娘たち」の脱走も大掛かりで、あとこれもラスト一行のインパクトが強烈。何にも説明なしでそれかよ! みたいな感じで、印象に残る。

 「完全脱獄」のアイデアもなかなか凄い。倒叙ミステリなのだが、この主人公、とびっきりのアイデアに挑戦している。というのも、コッソリと脱獄して、塀の外で人を殺して、またコッソリと刑務所に戻ってくれば、これ以上のアリバイは無いっての。そりゃそうだ。囚人が脱獄に成功したとして、自分から「戻ってくる」わけがないじゃん、ってのが盲点になってて、これなら絶対にバレっこない。よくこんなこと考えつくなあ。

 たぶん幾つかの短編は、一編だけ読んだ場合には「え、これで終わり?」と呆気なく思えてしまうと思うのだが、こうやってまとめて読むと、逆に、その呆気ない終わり方が、どれも味があってイイ感じに思えてきちゃうのである。

   5

 ところで今回のこの書評のタイトルは、聖日出夫のマンガ「なぜか笑介」を特に深い意味もなくただもじっただけのものなのだが、聖日出夫で思い出したのが「試験あらし」という作品。カンニングの技術だけで名門高校に入って、定期試験も毎度クリアして、ちゃんと卒業までしちゃう男の子の話である。

 個人的にはあのマンガ、けっこう好きだった憶えがある。ああいうのって、読むとついつい自分でも試してみたくならない? たとえばカッターで消しゴムに刻み目を入れて、本みたくパラパラめくれるようにしといて、そこに数学の定理とか英語の単語とかを書き込んでみたりとかって。でもカンペ(カンニングペーパー)に書き込んでるうちに、ああいうのって結局、暗記しちゃうんだよね。だから結局、カンペなんて不要になって、小道具造りの真似まではしたものの、実際にそれをテスト会場に持ち込んだりはしなかったんだけど、でも中にはあのマンガの真似をして、カンペとか持ち込んで、先生に見つかって、そこから転落の人生を歩んじゃった人とかもいるんじゃない?

 えーと。何を言いたいのかっていうと、カンニングと脱獄って、その計画の準備段階でえらい手間がかかる点とか、いざ本番となった時に味わうスリルの強烈さとかといった点が、けっこう似てるような気がするのである。で、「試験あらし」を読んでカンニングの真似事をしちゃった人がいたように、この「楠田匡介名作選 脱獄囚」を読んで脱獄の真似事をしたくなっちゃった人とかがいたら、それはさすがに止しときなさいって忠告をここでしておきたかったのである。

 え、それは心配ご無用だって? 脱獄トリックを試すためには、その前にまず刑務所に入らなきゃならないわけで、そこまでする奴はさすがにいないだろうって?

 あらまあ、それもそうね。ズッ!

[]週刊書評124回 08:28

道理が通れば無理がひっこむ

『人魚とミノタウロス』(氷川透/講談社ノベルス)

 氷川透は第15回メフィスト賞を受賞してデビューした、実力派の本格ミステリ作家である。彼がデビュー作から一貫して踏襲しているのが、初期のエラリー・クイーンに見られるロジカルな作風であり、第4長編である新作『人魚とミノタウロス』においても、それは変わらない。

 ところで、初期クイーンに影響を受けた国内作家といえば、まずは法月綸太郎と有栖川有栖、そして忘れることなかれ依井貴裕、という、都合三人の先達の名が挙げられることと思う。しかし、法月と依井はそれぞれ遅筆で有名だし、有栖川は「学生アリス」シリーズの新作を書かなくなって久しい。

 というわけで、ロジックを売り物にしている新鋭・氷川透には、今のところ競合する相手がいないように思われる。一種の専売状態である。そして刊行ペースも(三人の先達に変に倣うようなこともなく)快調で、そういった意味でも彼は頼もしく思われ、今後の活躍が期待されるところである。

 

 さて、それでは新作『人魚とミノタウロス』の紹介に移ろう。

 まずはそのあらすじ。

 氷川透が高校時代に影響を受けた書物に、岸田秀の『ものぐさ精神分析』がある。それを氷川に読むよう奨めた同級生こそが、生田瞬であった。卒業後は別々の道に進んだ二人が、新宿駅の雑踏の中で偶然再会する。そのとき、氷川はミステリ作家を志望しつつもデビューできずにいるモラトリアム青年であり、一方の生田は精神科の研修医となって調布厚生病院に勤めていた。その場では短い言葉のやりとりしかできなかった二人だったが、約束を交わし、氷川はその翌日の昼に、調布の病院に生田を訪ねて行く。ところがそこで彼を待っていたのは、小火騒ぎと、鎮火した現場から見つかった一体の焼死体であった。黒焦げになった死体は誰の物とも判別できない状態だったが、前後の状況から、それは生田のものではないかと判断された。本当にあの生田が死んだのか……死んでしまったのか? やがてその火事および被害者の焼死は、殺人事件であったことがほぼ明らかとなり、警視庁の高井戸警部と北沢刑事、さらに所轄署のアイドル・千歳良美刑事らとともに、氷川透は事件の捜査に乗り出すこととなる……。

 というような話で、特に付け加えることがあるとすれば、とりあえず目次を見ればわかるように、物語の終盤に「読者へ」というページが設けられていることだろうか。他の氷川作品を読んだことのある人にはお馴染みの、要するに、クイーン作品でいうところの「読者への挑戦」の役割を果たす部分である。これは氷川の作品においては、論理性を重視した解決部分こそが、読み所であることを意味している。

 そして上のあらすじでも明らかなように、作中で探偵役を務めるのは、他の長編と同様に、作者名と同じ「氷川透」という人物で、これもクイーンのひそみに倣っていると言えるだろう(ただし、物語は氷川の一人称ではなく、三人称で、そして全体の3分の1ほどの節では氷川以外の人物の視点で、語られることになる。そういった多視点の技法に馴れていない読者には、いくぶん取っつきにくい部分もあるかとも思うのだが、そういう語り口もアリなんだ、くらいに思って、ともかく読み進めていっていただきたい)。

 そして読了すればわかっていただけることと思うが、本作品の何よりの特徴は、解決編の厚みである。ページ数の割合という点でも、決して薄くはないが、論証部分の手抜きがないという意味でも、今回の解決編は厚みを持っている。

 ところで、この解決編における論証は、頭に「馬鹿」がつくほど丁寧であり、受け取りようによっては、解決編の半分ほどを費やして行われている、可能性としては低い(ゆえに一部の読者にとってはどうでもいいレベルでの)仮説を、いちいち潰すという手続き部分が、冗長に感じられる向きもあるだろう。

 しかしここで今一度、考えていただきたい。今の世の中で、ちゃんと理詰めで話が進む、道理が道理として聞き遂げられるシーンが、いかに見られなくなっているかを。

 それは、あるいは国会における答弁の場でも良いし、あるいはワイドショー番組における芸能人の受け答えであっても良い。そういった場で、正しい手続きに則った、理詰めの検証が、はたしてどれほど行われていることだろう。いきなり自分の結論を相手に押し付ける、そういった手合いが、どれほどこの世の中にのさばっていることだろう。

 無理が通れば道理が引っ込む。声の大きい奴が得をする。

 正論が通用しない間違った世の中に、憤懣を抱えつつも、どうすることもできないでいる人というのは、私も含めてこの国には相当数いるに違いない。そういう人にとっては、論理が論理としてちゃんと機能する、そのために必要な手続きはちゃんと踏む、という、この作品の姿勢は、絶対にそこで手を抜いてはならないものとして、その目に映るものなのである。

 そこで手を抜かないからこそ正しさが保証される。

 道理が通るからこそ無理が引っ込む。

 そこに、この物語のカタルシスがあるのである。

 ちなみにこの解決編、読者に対する演出という点でも、見事に計算されている。問題編で、ある情報が手に入った途端、作中の氷川は結論に到達する。しかし読者は置き去りにされる。読者がその情報にどんな価値があったのか、最終的に知らされるのは、解決編の最後の部分である。最後の最後に、ああナルホド、と読者に膝を打たせる、その演出が心憎い。

 作例の少ないロジック派の本格ミステリであり、しかも成功作であるというこの希少性、ゆめ見逃すことなかれ、である。

 

 というところまでが本論で、以下は余談。

 ところで『人魚とミノタウロス』という本書のタイトルは、何やら意味深長である。ともに半人半獣の姿で描かれる空想上の生き物で、しかし一方は上半身が人で下半身が獣(動物)、もう一方はその逆という組み合わせ。そこに深い含蓄が見られるようでもあり、読者の深読みを誘うはずのところを、作者はアッサリとその種明かしをしている。それによると、このタイトルは、ドロシー・ディナースタインという心理学者の著書『性幻想と不安』の原題であるとのこと。

 その時点で、タイトルに向けられた探求心は、ならばなぜ作者は、性差を論じたものだというその著作の原題を、この物語のタイトルとして冠したのか、というふうにスライドするはずで、「作者のことば」の代わりに引かれているマルカム・ブラドベリの言葉なども参照しながら、ここで一気に本作品のテーマ部分を論じることも可能であろう。探偵小説研究会の他の会員には、その部分をこそ、ここで論じるべきだと思っている者も、いるかもしれない。

 しかしそれは私の本分ではない。そうしたテーマ部分が、この作品では物語部分と無理なく解け合っていて、私のような浅学なミステリ読みにも、鼻につくようなこともなく、スッキリと読めたということだけ、ここで報告しておけば、一般の読者にはそれで充分であろう。

[]週刊書評144回 08:28

魔夜峰央+多湖輝=反ゲーデル?

『嘘つきパズル』(黒田研二/白泉社My文庫)

0.前口上

 黒田研二は2000年6月にデビューして以降、現在(2002年7月)までの2年余の間に7冊もの長編を刊行している(ここでは単独名義の作品のみカウント。他に二階堂黎人との合作もある)。本格派のミステリ作家としてはかなり多作なほうであろう。特に今年の4月から6月にかけては月1冊のペースで新作が刊行されて、ミステリ読者の目を惹いたものだが、今回ここで取り上げる『嘘つきパズル』は、その三ヵ月連続刊行の第一弾として世に出たものである。

 ではなぜ、5月刊の『ふたり探偵』(カッパノベルズ)や6月刊の『笑殺魔』(講談社ノベルス)ではなく、4月刊の作品をここで取り上げることにしたのか。

 単純にこの作品が(個人的には)三作中でいちばん面白く読めたから、ということもあるし、他の二作に比べると、版元のレーベル(白泉社My文庫)が出来たばかりで知名度が低く、ヤングアダルト向けということもあってか、本格ミステリファンからの注目度が低いように思われたため、判官びいきのような心情が働いたから、ということもいえそうな気がする。

 しかし最大の理由は、この作品が採用している「特殊設定」が、本格ミステリが本質的に孕んでいる「ある問題」と、「スリリングな関係」を結んでいるように思われたから、なのである。僕はこの作品を読んで、そのあたりのことについていろいろと考えさせられたし、それを文章化して他の人にも伝えたい、そして一緒に考えてもらいたい、と思ったのである。

 ではその「ある問題」とは何か。「スリリングな関係」とは何なのか。以下で説明してみたいと思う。しかしその前にとりあえず。

1.作品紹介

 豪華客船で南洋を旅行中、突然の嵐に見舞われて、甲板から海中に投げ出された主人公は、何とか孤島に流れ着いて生き延びる。船から落ちた人間は他にもいて、主人公を含む老若男女七人が、その島で救援隊を待つこととなった。島には一軒の館が建っていたが、持ち主は不在。食堂には食べかけの皿がそのまま残されていた。つい二週間ほど前まで島に逗留していたらしき人たちは、いったいどこに消えてしまったのか。捜索の果てに見つけた死体。手記に残された恐怖の体験。その恐怖は後から島に流れ着いた主人公たちにも伝染し、やがて彼らの間でも血なまぐさい事件が起こりはじめる……。

 というふうにあらすじを紹介すると、まじめな本格ミステリのように思えるかもしれないが、主人公の名前は間男(はざま・おとこ)で、職業は「くらげ焼き屋」(なんだそりゃ?)の若主人、そして島に立つ館の名前は「いやんば館」(林家喜久蔵かよ!)と、実はギャグすべりまくり路線で読者を脱力させる作風なのであった。

 おっと。ここで引かれては困るので、フォローをしなくてはならないだろうな(自分が面白いと思っている作品を紹介しているのに、だったら読むの止そう、と言われることほど悲しいことはない)。とにかく以下を読んでいただきたい。

 えーっと、ギャグの合う合わないは人それぞれ、好みもあろうかとは思うのだが、ここでの紹介よりも何よりも、そのあたりのことをいちばん確実に試してみることができる場所がウェブ上にあるので、まずはそちらに振ってみよう。黒田研二の個人ウェブサイト「くろけんのミステリ博物館」がその場所である。ギャグの好みが合うかどうかで本の購入をためらっている人は、同サイト内の日記や、創作集「警察詰め所」にある「ぜにーちゃん」ものの短編をひとつふたつ、まずは読んでみるべし。だいたいそんな感じだと思ってくれれば間違いはない。というか『嘘つきパズル』にはほぼそのまんまのキャラで「ぜにーちゃん」が登場するのだ。作者の「素」の部分がいちばん良く出ている作品だと思う。のびのびと書いている感じがする。だから読みやすいと思うのだがどうか。

 さらにフォローするために、本書のカバー絵と本文イラストを担当している「魔夜峰央」の名前を出してみようか。魔夜峰央といえば『パタリロ!』で有名なマンガ家である。そして本格ミステリファンならば『パタリロ!』シリーズを愛読しているはず。ここであのシリーズの(というか魔夜マンガの)ギャグの間(ま)を思い出していただきたい。『嘘つきパズル』の脱力系ギャグは、イラストの効果もあってか、魔夜マンガのあれに通じるものがあるように、読んでいて思えるのである。どこかしょーもない、おふざけ系のギャグ。でも許せちゃう、というか笑っちゃう、みたいな。

 さらにもう一段階フォローを入れれば、そういう「おふざけ系」の作風だからこそ、すんなりと「特殊設定」を作中に導入することができている、という因果関係を指摘することもできるのだ。この作品からギャグ路線を取り除いてしまうと、その「特殊設定」が妙に浮いてしまう。だからあの作風はそれはそれで必要なのだと。

 なんだか言い訳がましくなってしまったが、えーっと、僕個人は、この作品の「しょーもないギャグ」路線は好きなので、そこは取り違えることのないように。僕個人は好きだけど、中には好みが合わない人もいるかもしれない、でもこの作品は読んでほしいということで、いろいろと書いてしまったのだった。

 とにかく読んでもらわないことには。

 さて。以下では本書で採用されている「特殊設定」について言及している。直接的なネタバレではないにしても、その「設定」が明かされるのは作品の半ばあたりであり、つまり一冊の本の約半分まで読まなければ知り得ない情報を、先に知ってしまうというのは、読者の興を削ぐことにもなりかねないので(もちろんそうはならないように、以下ではむしろ読者の興味を増すように書くつもりではいるのだが)、事前に余計な知識を持ちたくない、いっさいの先入観を持たずに作品を読みたいという人は、以下を読まずに(僕を信じて)、まずは『嘘つきパズル』を読んでみていただきたい。

2.特殊設定

 とは言っても、まず作品のタイトルを見て、さらに作品冒頭にある『頭の体操 第5集』からの引用文を読めば、その時点で読者は、本作に導入されている「特殊設定」(作中では「呪い」という言い方がなされている)がどんなものか、おおよその見当はつけられることと思う。だからここに書いてしまうと。

 「嘘つき人」(嘘しかつけない人)が出てくるのではないか? という事前の予想は微妙に違っていて、実際にはその逆、「正直人」(嘘をつけなくなってしまった人)が出てくるのだが、まあだいたい、思っていたとおりである。両者にそう大した違いはない。どのみち、その人の発言の真偽は(つまり真実は)、第三者によって判定されてしまうのだから。

 そして、この作品の大いなる試みは、孤島での連続殺人に、つまりクローズド・サークルものに、そういう設定を導入してしまおうという部分にある。

 なんて大胆な、そして興味深い設定なのだろう……。本格ミステリファンのひとりとして、僕はまずそう思ったのであった。

 ここで本格ミステリが本質的に孕んでいる「問題」について、説明しておこう。

 本格ミステリでは、犯人を論理的に指摘できることが求められている。しかし実際には、作者も読者も、そこに「完璧な論理」を求めれば求めるほど、作品は袋小路に迷い込んでしまうことになる(これが世に言う「ゲーデル問題」のひとつだ)。たとえば犯行現場に犯人の遺留品と思われる品が落ちていたとする。しかしそれをそのまま証拠として採用してもいいのだろうか。真犯人がある人に嫌疑をかけるために用意した偽の証拠品である可能性はないだろうか。そうやって考えていくと、何を元にして論理を組み立てていったらいいか、その基盤からして、揺らいでいってしまうのである。

 あるいは、犯人を特定するロジックの中では最強のものとして「犯人しか知りえない事実」がよく使われるが、しかしそれも厳密に言えば「絶対」ではない。人間には間違いがある。たとえば言い間違い。Aと言うつもりで実際にはBと言ってしまっていることなど、僕にとっては日常茶飯事だ(歳はとりたくないねえ)。で、そのBがたまたま「犯人しか知りえない事実」と同じだったとしたら。

「君はあのとき、凶器は包丁だ、と言ってたよね。でも現場に落ちていたのはナイフで、僕らはあの時点では、犯行に使われた凶器はナイフだと思っていた。それが検視の結果、凶器が包丁だったということが後から判明したわけだが、じゃあどうして君はその前に、凶器が包丁だったということを知っていたのかね?」

「知ってません。本人は「ナイフ」と言ってるつもりで、でも実際に口から出た言葉は「包丁」だったというだけなんですよ。そういうことってよくありません?」

 考えすぎと言われればそれまでだが、しかしそういう可能性まで考慮に入れれば「犯人しか知りえない事実」もまた、「絶対」的な証拠とはいえない、ということになるのではないか。

 そういう厳しい目で検証していくと、ロジック派の代表選手であるかのように言われているエラリー・クイーンの諸作にしても、その論理が「絶対」であるとは言い切れない場合がほとんどのように思えてきて、そもそも本格ミステリの論理に「絶対」性などあるのだろうか、という話になってきてしまう。

 人工的な創作物である本格ミステリにおいてもそうなのだから、現実世界においては「絶対」などということはありえないはず。その人が犯人でない可能性が、たとえどんなに僅かでも、必ず残るものならば、じゃあどうして死刑などという制度があるのか。他の刑罰であれば、誤審が判明したときに後から償うこともできるだろうが、その人を殺してしまっては、生き返らせることができない以上、取り返しのつかないことになる。だから死刑には反対だ。……というふうにズルズルとそっち方面に嵌まり込んでいってしまったミステリ作家もいるほど、この問題の根は深い。

 ところが『嘘つきパズル』では、「呪い」をかけられている人に、

「あなたが犯人ですか?」

 と聞いてみれば良いのである。

「いいえ、わたしは犯人ではありません」

 という答えが返ってきたら、その人は「絶対」に犯人ではないのだ。

 本格ミステリに「絶対」性が導入される。「嘘つき人と正直人」の特殊ルールを作中に導入するということは、つまりはそういうことなのである。

3.広がる可能性

 というわけで、この「特殊設定」がとにかく面白い。このルールのもとで、いろんなケースが考えられるのである。

 いちばん単純なのは、犯人に「呪い」がかけられていた場合。

「あなたが犯人ですか?」

「いや、わたしは犯人では……ある。そうだわたしが犯人だ。ああなんでオレは正直にこんなことを告白してるんだ!」

 これではミステリにならない。むしろルールを逆手に取って、「呪い」をかけられていない犯人が、自分がいかにも「呪い」をかけられているかのように振舞って、そこで他の人からくだんの質問を引き出してみた場合のほうが使えそうだ。

「あなたが犯人ですか?」

「いいえわたしは犯人ではありません(内心:嘘だぴょーん)」

 他のことは(自分の恥に繋がることなども)全部正直にペラペラと喋っておいて、ああ、こいつは「呪い」をかけられているんだな、とひとに思わせておき、肝心なところで嘘をつく。そういう手はひとつあるだろう。

 しかし作中では「呪い」をかけられたのは二人だけということになっている。「呪い」をかけられていない犯人が、たとえそのふりをしていたとしても、本当に「呪い」をかけられた人間が他にあと二人いたら、おかしいぞ、これでは人数が合わない、じゃあ三人の中の誰かが演技してるんだな、ということになって、犯人はピンチに陥ることになるだろう。

 じゃあもし「呪い」をかけられていた人物が殺されてしまったのだとしたら。そうなれば実際に「呪い」を背負っているのは一人だけ、そこに犯人が嘘の演技をしていたとすれば、人数的には二人でちゃんと帳尻が合う。だから殺人事件が起こった場合、被害者が「呪い」を受けていたのか、いなかったのか、それを検証する必要がでてくるはずだ。

 さらに「呪い」を解く方法もあるというから、話はややこしくなる。先にこの島に来ていたという人たちの中には、その方法を見出したという人もいたらしいが、彼らの中で生き延びている人は本当にいないのか。この島にいるのは本当に自分たち七人だけなのか。

 そういうふうに、ルールの裏をかいて、読者の足元を根底からひっくり返すような裏技が出てきそうな気もする。だから読んでいる最中に、いろんなことを考えたし、作者がじゃあ実際にどんな手でくるのかというところで、かなりスリリングな読書体験を味わうことができた。

 読んでる最中はそれでいいとして、では読了後の感想はどうなのか。

4.読後感

 結果的には満足である。応用の部分で、読者である僕の予想を超えたルールの使い方がなされていて、素直にナルホドと思うことができた。そういう手があったのか。

 しかしそれだけでは終わらない。ルールのことをついあれこれ考えてしまう自分がいた。そういう部分で後を引くのだ。とりあえず「呪い」をかけられていたはずの人のセリフを全部検証してみたくなる。ルールが強力なぶん、作者はまったく言い逃れができないポジションにいるのである。どこかでポカをやってしまっているのではないか(実際、ある箇所で作者がポカをしているのを発見することができた。しかしそれがミステリ部分に瑕がつくような箇所でなかったのは、作者にとっては幸いだったと思う)。

 そんなふうにアラ探しをしたくなるだけではない。この「特殊設定」は、本格ミステリの世界に「絶対」性を持ち込むことによって、ある種の「理想状態」を築き上げ、他の作品では得られない完璧なロジックを演出することができるという点では、確かに優れものだとは思うのだが、ルールとしてちょっと強すぎやしないかという気がしてならないのだ。つまりそのルールが何か、作者の思ってもみなかった使われ方をして、そこに矛盾が生じるのではないか、設定自体が破綻しているのではないか、という思いが残るのである。

 この設定が無矛盾で成り立ってしまっていいのだろうか。破綻しているべきだ。そんな気さえする。なぜだろう。「絶対」性に対する嫌悪感の顕れなのだろうか。わからない。

 ともあれ、そんな形で、読了後にもいろいろと考えさせられる作品であり、ミステリに「特殊設定」を導入したタイプの作品群の中でも、この『嘘つきパズル』は特に注目すべき一作であると、僕は思っている。ちなみに、この作品の基本的な設定に関しては、ここであらかた説明してしまったのだが、実は肝心の部分についてはまったく触れていないのである。それは読者個々が読んでそれぞれに発見してもらいたいと思う。そして僕とともに、ミステリのルールについて考えていただきたい。本格ミステリというジャンルのファンならば、この作品はそういうわけでモストボイ、じゃなくてマストバイ、そしてマストリードなのである。

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