市川尚吾の蔵出し

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2009-03-09e-NOVELS原稿2

[]週刊書評79回 08:26

プロとアマの境界について考える

『新・本格推理01』(監修・鮎川哲也、編集長・二階堂黎人/光文社文庫)

 鮎川哲也という人は、僕にとって、本格ミステリの書き手というよりも、名アンソロジストとしての印象の方が強かったりする。多感な高校時代に、双葉社からノベルズ版で出た名編『殺意のトリック』『殺人設計図』『紅鱒館の惨劇』の三冊に出会ったのが、僕の氏に対するそうした印象を決定づけているように思う。

 それぐらい、その三冊のアンソロジーは、僕を夢中にさせた。本当に面白いと思った。こういう傑作・佳作が、過去の雑誌に掲載されたきり埋もれていたのを、掘り起こして収録し、僕に読ませてくれた、鮎川哲也というその人を、僕は心から尊敬した。

 そこから僕の興味は、昔の雑誌「宝石」の、特に「新人二十五人集」と銘打たれた別冊の蒐集に、向けられることとなった。鮎川哲也から与えられるのを、ただ待ってるだけでは能がない。というか、いくら待っていても続編が出ない。三冊きりである。こうなったらもう、埋もれた傑作を自分で探そう、それしかない、と思ったのである。鮎川哲也編のアンソロジーの出典は、そのほとんどが、昔の探偵小説誌にあった。特に旧「宝石」誌上で行われたという新人コンテストが狙い目であるように、僕には思えた。年に一度、地元のデパートで開催される古本市とかで、実物を見かけることもある。アレを買おう、と僕は心に決めた。

 そして最初に買ったのが、昭和26年のコンテストのもので、これは鮎川哲也のアンソロジーにも採られていた宮原龍雄の「新納の棺」をはじめ、愛川純太郎の「木箱」、山沢晴雄の「砧最初の事件」と「仮面」、丘美丈二郎の「左門谷」、狩久の「氷山」と「落石」、川島郁夫「その前夜」と「断層」、由良啓一「氷塊」など、とにかく傑作秀作がぎっしりと詰まった、後から思えばレベルの高い一冊であった。

 それが決定打となり、以来僕は、旧「宝石」誌の別冊の、新人コンテストのものを蒐集するようになった。そうして、蒐集するばかりでなく、いちおう、ぼちぼちと読み進んでいった結果、僕にはいろいろなことがわかってきた。

 アマチュアの投稿作品の出来と、その年のプロの作品の出来不出来との間には、相関関係がある、ということも、そのひとつ。プロの作品に活気が漲っている時代には、アマチュアの作品にも面白いものが多く、逆にプロの作品に力が無い時代には、アマチュアの作品も不作である。だから書き手から読み手までをも包む、ミステリ界とでもいうものが、やはりあって、そのエネルギーの総和が、時代に応じて波をもたらしている、ということ(笠井潔の論文に見られる「波」という表現の適切さ)が、そうしてアマチュアの作品を読んでいるうちに、如実に体感されたのである。

 プロとアマの差についても、考えるようになった。

 コンテストに作品を投じて活字化された書き手たちの中には、そのまま(あるいは後世に)プロになったという人もいるのだが、もちろんアマチュアのままで終わった人もいるわけで、数的には後者の方が圧倒的に多い。むろんそれはその人が、プロとしてやっていけるだけの実力に恵まれていなかった、ということでもあるわけだが、だからといってその人の作品を軽んじて良いということにはならない。たとえば愛川純太郎の「木箱」のように、他の作品はたいしたことがない(あるいは他に作品を残していない)のに、その一作だけで、ミステリ史上に名を残した、というケースだってあるわけで。

 ここでちょっと補足をしておかなければならないのだが、僕の場合、本格ミステリの(ことに短編の)評価のポイントはただ一点、アイデアにあると思っている。アイデアと、あと見せ方も重要かな。その他の点(文章など)はどうでも良い──というのは極論だが、僕は今、かなりそれに近い立場で、この短文を書いている。諒解されたい。

 だから僕にとっては、プロもアマも関係ないのだ。とにかく面白いアイデアを見せてくれた方が勝ち、という立場なのである。むしろプロの方が、コンスタントにアイデアを出さなければならないという条件を課せられているぶん、不利であろう。一人の人間が思いつくネタには限りがある(ただし一部の天才は除いて)と、僕は常々思っている。

 アマチュアにはそうした、継続の義務みたいなものも無いわけで、だから生涯でただひとつ思いついた、とびっきりのネタを、披露してくれれば良いのである。こんな馬鹿なこと思いついちゃいました、という、ただその一点をアピールせんがために、設定を考え人物を配置して、そうして作られた物語。それがアイデアの面では、プロをはるかに凌ぐ、という可能性だって、充分にあると、僕はそう思っている。

 さて、光文社文庫で平成5年に刊行がスタートした『本格推理』シリーズは、本格ミステリの短編を公募し、優れた作品を活字化するというもので、だから現代版の「新人二十五人集」という位置づけで捉えることができる企画だと、僕は公募の段階からそう思って期待していた。僕にとっては必読である。編集長(選者)が、あの名アンソロジスト・鮎川哲也だということも、期待を大きくする要因のひとつであった。

 そして実際、平成11年にシリーズの第一期が終了するまで、7年間に亘り、刊行された15冊を順次読みながら、これは現代版の「新人二十五人集」だとの思いを、僕はいよいよ強くしてきたのである。もちろん、良い意味にせよ、悪い意味にせよ。

 良い意味というのはもちろん、本格ミステリ界に活気を与えた、という側面での評価である。この企画への応募を足掛かりのひとつとして、村瀬継弥や北森鴻、柄刀一、城平京、黒田研二、光原百合といった、実力あるプロの書き手たちが、世に出ている。それ以外にも、現時点ではプロに転じていないものの、記憶に残る乾坤一擲ものの作品を投じて消えていった人や、あるいは常連として採用されている準プロとでもいうべき書き手たちも多くいて、現代の本格シーンを、その裾野の方から、盛り上げてくれている。

 ただしその一方で、これが活字化されて良いのか? と、僕からすれば、首をひねらざるを得ないような作品も、採られているケースがあり、ジャンルの裾野を広げるのは結構だが、全体のレベルを下げるような結果になるのは勘弁してもらいたいな、との思いを、特に後の方の巻になればなるほど、僕は感じるようになった。その意味では、旧「宝石」誌のコンテストの、悪い面をも、引き継いでしまったような気がしないでもない。

 旧「宝石」誌の短編コンテストでは、毎年二十五編の作品を活字化するというふうに、その枠が決まっていた。だから不作の年には、枠を満たすために、不出来なものも採らざるを得なくなる、ということも当然あったわけだ。文章が本当に拙くて、こんなのを活字にしてしまっても良いのだろうか、などと首をひねりたくなる作品が、堂々と活字になっていたりする。しかしまあ、そもそもがアマチュアの投じた作品である。そこは大目に見てやろうじゃないの。いや、むしろ、文章的にレベルが低いということがネックとなって、後世のアンソロジーなどで採りにくい、つまりこれはこの古雑誌でしか読めないのだ、と思えば、古本者でもある僕からすれば、それはそれで、その一編に、妙な愛着が湧いたりすることもある。だからまあ、それはそれで良いとしよう。

 しかし光文社の『本格推理』の場合には、毎年何編を採る、といった決まりは無いのである。不作の年には刊行点数を減らせば良いのだし、実際、編集方針もそうしたものであったらしい。それでいて、ではなぜ、読者をして首をひねらせるような、そうした作品が、採られるようなことになったのだろう。

 シリーズの後期になると、そもそも投じられる作品のレベルが低下していたのだ、ということも考えられる。しかし僕は別な原因を想定していた。選者である鮎川哲也の眼力の低下である(こんなこと書いてもいいのかな、と思いつつ、えーい、書いてしまえ)。正直言って、僕は、鮎川哲也という選者の眼力を、その頃には、もう信頼できなくなっていたのである。刊行の際に各編に添えられる解題にも、後期にはミスが目立つようになっていたし、これで本当に選考を任せておいて大丈夫なのだろうかと、一読者という立場ながらにして、思ったものである(みんなも本当はそう思ってたんじゃないの?)

 とにかく『本格推理』に採られるアマチュア作品の質の低下は、それが実際、応募作の質の低下を反映したものであれば、仕方のない話ではあるのだが、そうではなく、ただ単に選者ひとりの眼力の低下によるものであったとしたならば、それは早急に手を打たないとまずいと、僕の目にはそう映ったのであった。下手をしたら、本格ミステリ界全体のパワーを失わせる結果にも、なり得ないとも限らない(というのは少々オーバーな見方かもしれないが、プロとアマの作品の質には相関関係がある、という立場に立つ人間からすれば、それは本格ミステリのパワーダウンという印象を世に与えてしまいかねない出来事であり、看過できない問題ではあったのだ)。

 僕がそうした危惧を抱いていたら、何のことはない、光文社文庫の『本格推理』シリーズは結局、平成11年に刊行された15巻をもって、ひとまずの完結を迎えることとなった。鮎川編集長はこれでお役御免。ご苦労様でした。

 というわけで今年(平成13年)、間に一年間の準備期間を挟み、新世紀の到来と機を一にして、同企画がリニューアルの上、再スタートを切ることとなった。その第一弾が、今回僕がこの書評で取り上げようという『新・本格推理01』なのである。

 今回のリニューアルに際して、公募の条件を、第一期とはやや変えている。応募作の上限枚数が50枚から100枚に変更になったのもそのひとつだが、何よりも大きな変更点は、編集長が鮎川哲也から二階堂黎人に替わったことだろう。やはり選者に信がおけるというのは良い。

 そうして選ばれた、100枚クラスの原稿が、今回は8編、収録されている。しかし各編の僕自身による評価は、ここには書かない(僕の評価を知りたい人は、僕の個人ページ「錦通信」で書評を書いているので、そちらを参照されたい)。

 問題は、こうしてアマチュアの作品が活字になることの意義である。こういう本が商業ベースで刊行され、しかもそれを買って読む人間がいる。そうした動きそのものが、本格ミステリ界を下支えしていると、僕は思っている。

 さらに言えば、インターネットという環境の存在を、僕は現在、ことさらに重視している。掲題作の書評という論点からは、どんどんずれているのを承知で、それを以下に記す。

 アマチュアによる創作を読みたいと思ったときに、昔であれば、先述したように、雑誌のコンテストで予選を通過した作品を読むか、でなければ同人誌を漁って読むくらいしか、手立ては無かった。しかし現代では事情が異なる。この書評を読んでくれている人というのは当然、ネットへのアクセス環境を手にしているわけで、だからこれは百パーセント通じると思うのだが、ネット上には素人の手による創作が、星の数ほど点在している。だから読み手側が読みたいと思えば、いくらでも素人の創作が読める環境は整っている。

 ただしヒット率が低いというのは、ひとつネックとしてあって、コンテストの予選通過作の類とは違い、そこには選者のフィルタが掛かっていない。だからネット上の創作を読もうと思った場合、コンテストに喩えるならば、応募原稿を全て読む、下読み委員のようなことをする覚悟が無ければ、とてもじゃないがやっていけないだろう。

 実際、書き手側にしてみれば、これほど敷居の低いメディアもないわけで、内容がどんなに未熟な作品であろうとも、自分のページさえあれば(いや、誰の創作でも載せてあげましょう、という主旨のページも、世の中にはあるので、だから自分のページを持っていなくても、ネットへのアクセス環境さえあれば)、自分の書いたものを公開することはできる。そしてひとたび作品が公のものとなれば、いっぱしの物書きになった気分に浸ることも、本人の気分次第では可能なのである(読み手が本当にいるかどうかは別として)。

 敷居が低いぶん、ゴミも多い。しかしネット上に数多ある作品の中には、率は低いものの、それなりに面白いと思える作品も、あることはあるのである。

 そして、そういう作品を読むにつけ、僕は現代におけるプロとアマの差がどこにあるか、ということを、考えずにはいられない。

 プロとアマの作品が(読者さえその気になれば)同じレベルで読めてしまう時代なのだ。そうして読み比べたときに、アマチュアの作品の方が面白い、などということになれば、プロとしては面目丸潰れではないか。一度作品が活字になって、名前が売れたからといって、その地位に胡座をかいて、くだらない作品ばかり書いていると、あっという間にそっぽを向かれる。アマチュアの作品に負けていると、容易に指摘されうる。

 アマチュアの作品がジャンルの下支えになる、と僕が言うのは、そういう意味である。

 書き手ばかりではない。選者だって同様である。公募形式のコンテストに投じて落選した作品を、じゃあというんで自分のページで公開する、というケースも、ネット上ではよくあること。それが実は、選に採られた作品よりも面白かった、などということになれば、今度は選者の立場が危うくなるわけで。

 評論についても同じである。僕自身、ネット上に開設した自分のページで、書評とか評論とかを書き続けてきたのが、認められて(あとは若干のコネもあって)、探偵小説研究会という団体に加入させていただいた人間であるから、余計にそう思う。今はプロとアマの差が見えにくい時代だと。

 だからいつだって真剣勝負。そういう心構えが要求される時代なのである。

[]週刊書評101回 08:27

聖職者とミステリの不協和音

『着流し探偵事件帖 青空の下の密室』(村瀬継弥/富士見ミステリー文庫)

 1.富士見ミステリー文庫と村瀬継弥という取り合わせ

 本格ミステリのジャンル読者である僕は、次のようなことを常々思っている。マンガやテレビやゲームなどといった他メディアや、あるいはジュブナイル作品などで、「ミステリ的なもの」にそれなりに親しんできた若い読者層というのが存在する。それがそっくりそのまま「本格ミステリ」というジャンルの読者に移行してくれれば、これに越したことはないと。そうなれば読者数がごっそりと増えて、結果的にジャンルが繁栄するから。

 しかしなかなかそうはなってくれていない。ということは、やっぱりそこには何がしかの段差があるわけで、じゃあそこにある段差を、どうやって埋めたら良いのかと言ったときに、たとえばこの、十代の読者をターゲットにしたミステリ叢書「富士見ミステリー文庫」が、そういった役割を果たしてくれればいいなあと、僕は身勝手ながら、そんなふうに思っていたのである。

 十代の、いわゆるYA(ヤングアダルト)読者層に向けて、本格ミステリに特有の面白さを持った作品が書かれる。若い読者は普通のYAを読むのと同じノリで、つまり敷居の低さで、その作品を読み、それがきっかけとなって、本格ミステリの面白さを知り、ジャンル読者に育つ。

 そんなふうに事が運んでくれれば万々歳なのであるが。しかし現状、そういうことの出来る書き手が、なかなか見当たらない、という問題点が、そこにはあるのだった。

 本格ミステリに特有の面白さとは何か、と言った場合、異論もあろうが、僕はそれは、煎じ詰めれば、アイデアに尽きると思っている。だから本格ミステリの作者には、まずアイデアマンとしての資質が必要で、しかもそれを最善の形で読者に提供する演出上のテクニックにも長けていなければならない。斬新なアイデアがまずあって、それを中心に騙しのテクニックを駆使して、物語を作る。そうして、読者に「うまく騙されたときの快感」を味わわせるのが、本格ミステリのプロのお仕事なのである。

 しかしそれは、誰にでも簡単に出来る、というようなものでもない。そういうものが書ける作家というのは、数が限られている。そして彼らは、ジャンル内読者を相手に作品を書くことに邁進している。だから、たとえば「富士見ミステリー文庫」にしてもそうだと思うのだが、本格ミステリのレーベルであるという認識が浸透していない叢書では、そういった資質を持った書き手がなかなか得られずに、結果として、本格ミステリであるとはなかなか言い切れないような作品が書かれているというのが、実状のように思うのである。

 うーむ。これではなかなか「YAから本格ミステリへの段差」は埋まらない。どうしたら良いのだろうか。僕が思うに、その段差を埋めるためには、やはり、本格ミステリの面白さを熟知し、その技法をマスターしたところのプロの書き手が、YAの読者層を相手に、作品を書く必要があるのだ。

 というわけで、僕はこの作品に注目するのである。

 村瀬継弥は、本格ミステリの真髄を熟知した作家である。彼の書く作品は常に、本格ミステリならではの面白さを、その核に持っている。

 そして彼が今までに書いてきた作品、特に「藤田先生」シリーズの短編などは、いちおう大人向けの媒体に発表されてはいるものの、十代の読み手にも躊躇なく薦められるような(換言すれば、いかがわしさとは無縁の内容に)、仕上がっていた。

 だから彼の書く作品は、何となく、YAの読者層とも親和性が高いような気がしていたのだ。

 では実際のところはどうだったか。とりあえずYA読者の「食いつき」という観点から、内容を検証してみよう。

 2.あらすじ、キャラ立て、食いつき

 主人公は橋上翔太という高校二年生の男の子。彼の通う高校で、殺人事件が発生する。校舎の屋上で発見された死体は、日本史を教える教師のものだった。彼は腹部を刃物で三度刺されて死亡していた。凶器は現場からは発見されず、死体の脇には、漢数字の「一」のようにも見える血文字が残されていた。事件発生の前後に、屋上に出入りした者は、被害者の他にはいなかったという。フェンスに囲まれた屋上は、事件当時、ミステリなどで言うところの「密室状態」だったのだ……。

 という出だしで、物語は巻頭から快調に始まる。

 そして名探偵が登場する。青矢由紀夫は主人公と同じ高校二年生。学年一の美男子で、剣道の有段者。宮本武蔵を尊敬しており、時々その言葉を引用したりする。高校二年生にして、既に自分の人生哲学を持っているのである。家では和服を着流しにしており、それが「着流し探偵事件帖」という副題(シリーズ名?)にもなっている。といっても、荒唐無稽なスーパーヒーローではない。不良と立ち回りを演じた後に、「怖かった。死ぬかと思った」などと述懐している。彼はあくまでも読者と同じレベルでの存在であり、等身大のヒーローなのだ。

 サービス満点。なかなかよろしいではないか。女性読者のハートをガッチリ掴んだぜ。でも男性読者はどうするの。美男子を出した以上は、美少女も出してしまおうぜ。という次第なのかどうなのかはわからないが、やはり登場するのが学年一の美少女、赤月美樹。左頬の下にある黒子がチャームポイント。青矢くんと赤月さんは、誰もが羨むカップルなのである。

 彼女が和服を着るシーンは、作品中にはないはずなのだが、やはりタイトルで「着流し探偵」と謳っている以上、カバー絵に青矢くんの和服姿は必須で、そのついでということなのだろう、赤月さんも和服を着て、二人のツーショットがカバーを飾っている。

 冒頭から密室の謎があり、キャラも立っている。イラストも良い感じである。そういった要素だけを抜き出して並べれば、これならYA読者の食いつきも良いのではないだろうか、と単純に思ってしまうのだが。

 でも実際に読んでみると……何となく違和感を感じるのだ。これは何だろう?

 たぶんそれは、村瀬継弥という作家の本質に関わることなのではないか。

 そのあたりに興味を覚えたので、僕は今回、この作品を、「週間書評」で取り上げてみることにしたのである。以下、ちゃんとした結論は出ていないのだが、僕が考えたことをダラダラと書いてある。『青空の下の密室』という作品の書評からは、だいぶ外れたことを書いてしまったような気もする。作家論に興味のない人は、3~5を読み飛ばして、6の結論だけを読んでいただきたい。

 3.違和感の正体1/淡々とした筋運び

 村瀬継弥の文章は妙に淡々としている。

 短編作品だとそれがあまり目立たないのだが、前作『水野先生と三百年密室』や今回取り上げた作品のように、長編になると、それが目立つようになる。

 淡々としている、という言い方は、かなり主観的な表現なので、もうちょっと客観的に書いてみよう。どうして僕が「淡々としている」という印象を受けたのか。原因を分析してみると、二つのことに行き当たる。

 ひとつは、シーンとシーンの繋がりが薄いということ。場面が違ったり、時間的に繋がっていなかったりする、別々なシーンが、ただ単に並べて書いてある、みたいな感じで、文章が続くところがある。

 もうひとつは、ここが山場だ、というような箇所でも、文章の密度があまり濃くならないということ。

 全体に、ネチネチと書き込まれたシーンというのが、あまりなくて、ブツ切れの文章がただ並んでいる、という感じなのだ。

 そこで僕が何となく連想してしまうのが「子供の絵日記に添えられた文章」なのである。プロの作家の文章を取り上げて、そんなものに喩えるなど、失礼千万なこととは承知しているが、連想してしまったものは仕方がない。「今日僕は海に行きました。大勢の人がいました。海の水はやっぱり塩辛かった。焼きそばを食べました。楽しかったです。家に帰ったら日に焼けていてからだ中がヒリヒリしました」というような文章に、書き方がどこか似ているような気がするのである。

 こう書くと、本当にバカにしているみたいだけど、僕にはそんなつもりは全くないので、勘違いしないでいただきたい。

 前の文と、次の文、さらにその次の文と、記述が繋がり合って、濃密な描写がなされる。それは小説を書く上での、ひとつの技法である。しかし、小説はそういうふうに書かれなければならない、というようなルールがあるわけではない。

 映画を例に出そう。最近のハリウッド製のアクション映画などでは、役者が身体を張ったシーンや、爆破シーンなどの見せ場になると、決まって、スローモーションになったりする。通常のスピードで流してしまっては勿体ない、とでも言うように。その演出方法にすっかり慣れさせられた人間が、TVの深夜映画などでたまにロイド喜劇を見たりすると、実際にはもの凄い見せ場が演じられているのに、スピードは通常のままで、カメラアングルも普通で、そんなふうにさり気なく見せられているのが、却って新鮮に感じられて、勿体をつけていない分、ロイド喜劇の方が潔くて好きだ、などと思ったりすることがある。

 演出方法に正解はない。好みの違いがあるだけだ。僕はそう思っている。

 村瀬継弥の文章を読んで、ブツ切りだと違和感を感じるのは、それは実は僕の感性の方が、ある一定の演出方法に慣らされてしまっているせいだと、僕は思うのである。村瀬作品を読んで、文章が下手だ、と言う人は、ロイド映画を見て、演出が下手だなあ、もっとスローモーションを使えばいいのに、などと言うのと同じ愚を、犯しているのである。

 世の中に氾濫している形式と、どこか異なっている、だから違和感を感じる、でも決して技術的に劣っているわけではないという、そんな形式を、僕はユニークだと思い、むしろ好んでそういうものを求める気持ちさえある。

 しかし僕が村瀬作品に感じる違和感は、淡々とした筋運び、だけではないのだ。

 4.違和感の正体2/本当は残酷だった村瀬童話?

 僕は今まで、何となく、村瀬継弥の書くミステリを、ほのぼのしたものだと、あるいは、童話っぽいものだと、そんなふうに思っていた。冒頭の節でも書いたように「十代の読み手にも躊躇なく薦められるような」「いかがわしさとは無縁の内容」だから、イコールで、ほのぼのした作品だと、あるいは、童話のようなものだと、そんなふうに思っていたのかもしれない。

 しかし実際には、それを「ほのぼの」と評するのは、間違いであった。

 僕の感じた第二の違和感は、要するに、その先入観の間違いに起因するものだったのである。

 実際に村瀬作品を先入観なしに読んでみれば、シビアな現実を思わせるようなエピソードが、けっこう作中に描かれていることに気づくだろう。

 藤田先生の教え子の中には、早世した子もいる。長編に登場した藤田先生は、病気で入院していたり、作中で意外な過去を読者に披露したりしている。

 今回の『青空の下の密室』でも、学内でいじめが行われていたり(生徒間のものだけでなく、先生たちの間でもそれが行われていたりする)、主人公が相思相愛のカップルの女性の方に横恋慕してしまったりと、なかなか簡単には結論の出せないような問題が、作中に盛り込まれていたりするのだ。

 村瀬作品の物語は、単純な勧善懲悪の構造にはなっていないと言えるだろう。

 生徒間で行われていたいじめ問題には、いじめていた側の生徒たちから、ある種の示談案が提示されて、いじめられていた側は、心からの承服はできないままに、仕方なくそれを飲むことになるのだが、そうした解決はスッキリとした後味を読者に与えてはくれない。

 また、物語のラストで、探偵役の少年が真相を暴いたことにより、ある人物が別な人物に寄せていた好意が、無に帰してしまう。それなのに、その件に関してのフォローすら、作中には描かれていない。読了後、その点に思い至った読者は、スッキリとない読後感を味わうことになる。

 善人が必ずしも善い目にばかり遭うわけではない。善行に苦難が酬いることだってある。そんなシビアな現実観が、村瀬作品の根底に流れているようにも感じられる。

 その発見が今回、僕にとっては、ちょっと意外なものとして感じられたのだ。

 そして僕はさらに考える。そうしたシビアな現実観は、あるいは村瀬継弥が過去に教職に就いていたことと、何か関係があるのかもしれないと。

 5.聖職者とミステリ

 現実の社会というのは実際、シビアなものであるのだが、大人の人間関係の中でそれを感じることは、実はそんなには多くないと思う。自分がシビアな態度で他人に接すれば、逆に自分も他人からシビアな態度で接し返されるということが、わかっているからである。他人に対しては、とりあえず慇懃な態度で振る舞ってみせる。自分の本心をペルソナの下に隠して、無難な顔を他人に見せる。それが大人の態度というものである。

 シビアなのは、とりあえずは財布の中身だけで、人間関係においては、そこそこ無難に振る舞っている、というのが、現代社会における大人たちの実状なのではないかと思う。

 しかし子供の社会ではそうはいかない。子供は他人の痛みを想像できない。いや、想像できるからこそ、他人に痛みを負わせて、それを楽しむことができるのか。ともあれ、現実の中学生や高校生たちは、学内でふるわれるかもしれない暴力に、日々恐怖しながら過ごしている。校内暴力やいじめが社会問題として取り上げられても、自浄作用がうまく機能しない世界が、そこにある。子供たちはそんな世界の中で日々を過ごしている。

 そして学校の教師も、大人でありながら、そんな世界の住人であることを強要されている。大人である分、自分が暴力の標的にされる恐れは少ないかもしれない。しかし生徒間のいじめを目撃することはあるだろう。あるいは生徒の家庭内で、何かが良くない方向に進んでいると察知されることもあるだろう。しかし彼がそうした問題を全て解決に導けることは、まず無いと言って良いだろう。彼は非力であり、無力でさえある。

 TVを点ければ、あるいは新聞の三面を開けば、そういった事例は枚挙にいとまがない。しかし教職者は、そんな悲惨な事件の当事者を、常に目の前にしているのだ。他人事といっても、その度合が異なる。だからこそ、自分の無力さを、他の人よりも余計に痛感せずにはいられない。

 その無力感は、やがて諦念へと至る。

 夏目漱石の『硝子戸の中』に、漱石が吉永秀子という人から人生相談を持ち掛けられた折のエピソードが書かれていて、僕は諦念というと、まず最初にその話を思い浮かべてしまうのだが、そこにはこんなふうに描写されている。

「私は手の付けようのない人の苦痛を傍観する位置に立たせられて凝としていた」

 その女性は、自分はこのまま苦難の中でも生き続けるべきか、それとも死んだ方が良いのか、というレベルの相談を、漱石に持ち掛けているのである。その問題に対して、漱石には何も取るべき道がない。彼は傍観者の位置に立たされている。結局、漱石は「生きていらっしゃい」とだけ進言する。そして女性が立ち去った後の心境を、こんなふうに記しているのだ。

「むせっぽいような苦しい話を聞かされた私は、その夜却って人間らしい好い心持を久し振に経験した」

 他人の不幸は密の味、とまでは書いていないものの、どうやらそんな心境だったらしい。また、そこまで開き直れなければ、とても他人の苦渋に満ちた秘事など聞けたもんじゃないと、僕も思うのである。

 他人の苦渋に満ちた秘事を聞く、ということで、僕はそこでさらに、カトリックの神父の職責である「告解」のことを連想する。ブラウン神父は、お得意の逆説口調で、自分は聖職者だからこそ誰よりも犯罪に通じている、という意味のことを言う。

 神父は聖職者である。そして学校の先生のことも、我々は聖職者と言うではないか(言いませんか? 僕は言いますけど)。北村薫もはやみねかおるも、篠田秀幸も、元は教師であった(そういえば夏目漱石も、元は教師だったではないか──というのは、もちろん無関係である。ただ書いてみたかっただけ。すみません)。

 聖職者とミステリという取り合わせには、何かしら意味があるのかもしれない──と大風呂敷を広げるのは危険だからやめておこう。話を村瀬継弥の場合だけに絞ると。

 彼はたぶん、教師生活を通じて、普通の人よりも余計に、この現実世界がシビアであること、善人が必ずしも善い目を見るとは限らないこと、いじめ問題には万能の解決策などないこと、などを目の当たりにしてきたのだ。だから彼は安易な解決を盛り込まない。いじめ問題ならいじめ問題を、いちおう作中に取り上げることはしても、それを物語として完結させない。単に記すだけ。

 だから彼の書く物語は、どこか中途半端な印象を僕に与えるのだ。そしてそれが、彼の作品独自の持ち味となっているようにも思うのである。

 6.まとめ

 YA向けのミステリ叢書からついに出た、本格ミステリとして、『青空の下の密室』は、及第点は充分に与えられるべき作品に仕上がっていると思う。

 しかし僕は今回、そうしたポイントとはまた別な点で、村瀬作品の面白がり方を新たに発見できたような気がしている。それは結局、僕だけの問題なのだが、今まで僕は何となく、この作者は「ほのぼの」とした作品を書く人だ、みたいな思い込みがあって、その太刀筋を見切ったつもりになっていたが、実は全然違う太刀筋の持ち主だった、そして今回ようやくその本質に触れることができた、という意味で、僕の中で彼は、今後も目を離せない作家となっているのである。

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