市川尚吾の蔵出し

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2009-03-10e-NOVELS原稿1

[]二階堂黎人特集に書いた原稿 08:23

クイーンの呪縛、あるいは「作者名=作中人物」という縛り

 二階堂蘭子シリーズにおいて「二階堂黎人」というのは、本の著者名であるとともに、作中における語り手の名前でもある。

 どうしてそんなややこしい設定を用いたのか。原書房の『ニューウエイヴ・ミステリ読本』に所収のインタビューで、二階堂は次のように発言している。

「(前略)作中の著者の名前を(自分の)ペンネームにしたのは、現実と虚構の境界をなるべくなくすという意味からですね。でも画数が多くてサインの時大変なんで、今では非常に失敗したなあと(笑)。(後略)」

 つまり、読者の前には明らかな虚構として存在している小説というものを、なるべく現実の側へ引き寄せようとした場合に、そうした設定が多少なりとも効果があると思われているから、というわけである。

 現実にいくらでもありそうな物語、そう、たとえば恋愛小説とかならば、読者は作中に展開される物語世界に、わりと素直に入って行けると思うのだ。ところが本格ミステリの場合には、やれ密室殺人だ、神出鬼没の怪人だ、名探偵だ、といった具合に、現実世界では到底有り得ないような話が展開されるわけで。だから読者は最初から、これは虚構だ、という心構えで、読書に臨むことになる。いや、別に、読者側からすれば、それはそれで構わないような気がするのだが、でも作者側からしてみれば、そこで何かいまひとつ、工夫をしてみたい、というような色気が出てしまうのだろう。

 二階堂と同じ意図からなのかどうかは不明だが、本格ミステリ畑では特に、作者名と同じ名を持つ作中人物が登場する、という設定を導入している書き手が多いように思う。パッと思いついたものを挙げただけでも、有栖川有栖、法月綸太郎、篠田秀幸、氷川透、石崎幸二といった各氏がいて、あと本格かどうかが微妙なセンでも、椹野道流、物集高音といった名前を挙げることができる。他にも、デビュー前の光原百合は吉野桜子という(作中人物と同じ)筆名を用いていたし、若竹七海の初期作品にも、作者と同名の作中人物が出てくるものがあった。竹本健治や小森健太朗、そして綾辻行人といった各氏の場合には、メタミステリという趣向のために、そういった設定が必要とされていた。まだまだ、考えるほどに、いろいろと出てくる出てくる……。

 というよりも、そもそも「作者名=作中人物」という設定ならば、エラリー・クイーンという始祖がいるのだった(その前にヴァン・ダインもいるのだが、それと意識されることは少ないので、ここでは割愛)。そうそう、だから、国内本格の場合には、また話が違うのだ。虚構と現実がどうこうといったような、小難しい理屈はおいといて、とにかくあのクイーンがやっていたのだから、僕も同じようなことをやってみたかったんだ、というようなメンタリティを、国内本格の書き手の場合には、考慮しなくてはならないわけで。少なくとも有栖川、法月、氷川の三氏の場合には、そういった動機づけが、まず最初にあったのではなかろうか。

 というところで、唐突だが、ここでクイーンの呪縛、ということを考えてみる。

 クイーンの呪縛とは何か。僕が今ここで勝手に作った用語だが、それは「作者名=作中人物」という設定がもたらす、様々な縛り(から生じる問題)を意味する。

 たとえば本家クイーンの場合には、その設定は「作品世界の単一化」という縛りをもたらしている。要するにクイーンは「一作家一探偵主義」、つまり《「作者クイーン」が書く作品は、全てが「探偵クイーンの存在する世界」の物語である》という縛りを貫いているのだが、それはおそらく作者クイーンが「作者名=作中人物」という初期設定を決めた段階で、自動的に導き出された方向性だったのだと思う。といっても、そんな縛りなどは、別に守らなくても良かったのだが、守った方が「美しい」ので、結局「作者クイーン」はその設定に殉ずることとなったと、僕は想像している(実際、クイーンはドルリー・レーンものを書くに際して、バーナビー・ロスという別な筆名を用いているが、それは上述のような縛りを守るためだったはず)。そうして作者クイーンは結果的に、己の美学を守った。しかしその方向性は、美しくある一方で、実は作者の創作の幅を狭めてしまうという問題点をも、併せ持っていたように思うのである。

 また、そこまでルールを徹底するつもりはなくとも、「作者名=作中人物」という設定を導入している作者が、シリーズ外の作品を書いたときには、その作品が読者からやや軽んじて(そんなのは余芸であり、この作者の本分はやはり「作者名=作中人物」のシリーズにある、というふうに)見られる傾向は、多少なりとも、あるように思う。いや、読者がどう思うかという話以前に、まずは作者自身が、そうした形で意識するあまりに、シリーズの新作が書けなくなってしまう、というケースすら、あるように思えてしまう。僕に言わせれば、それも一種の「クイーンの呪縛」なのである。

 実際、聞くところによると、法月綸太郎の抱えている悩みのひとつは、まさに「作者名=作中人物」という設定そのものに由来するものであるらしい。また有栖川有栖の場合には一見、「作者名=作中人物」の設定を二つのシリーズに分割することによって、そうした問題点を巧みに回避しているように見られるが、それでも負荷の分散は必ずしも成功しているとは言えず、江神シリーズに寄せられる読者からの期待の高さは、作者・有栖川有栖にとって、現在、かなりのプレッシャーになっているように見受けられるのである。

 この二人が、現在のところ、クイーンの呪縛に囚われている代表選手だと、僕は思っている。

 では二階堂黎人の場合はどうなのか。

 以下は私見だが、「作者名=作中人物」という設定を導入した二階堂蘭子シリーズには、やはり氏の代表作というべき作品が揃っているように思うのである。といっても、じゃあ蘭子シリーズ以外の作品はダメなのか、といえば、全然そんなことはなくて。

 二階堂の場合は、だから、法月や有栖川とは違って、そういう点で、クイーンの呪縛からはある程度、逃れられていると思うのだ。

 創作で言えば、作者は今までにも二階堂蘭子シリーズの他に、ボクちゃん探偵シリーズ(渋柿シリーズ)や水乃紗杜留シリーズを書いており、最近では増加博士のシリーズなどで、作品の幅をさらに広げようとしているように見受けられる。そしてそのどれもが、適度に力の抜けた作品でありながら、作品の質という点では充分に水準を越えるものとして仕上がっている。

 さらに仕事の幅という見方をすれば、ここ一、二年の間での幅の広がりようはめざましく、たとえば「新世紀「謎」倶楽部」や「彩胡ジュン」といった名のもとに連作や共作の企画に積極的に加わる一方で、『本格ミステリーを語ろう[海外編]』や『二階堂黎人VS新本格推理作家、おおいにマンガを語る』といった対談物もこなし、手塚治虫のアンソロジーを編む一方で、光文社文庫の『新・本格推理』の選者も務める、といったふうに、氏はその多芸ぶりを存分に披露している(最新刊では『八ヶ岳「雪密室」の謎』にも参加している)。

 そんなふうに、各方面でそれぞれ、高い水準の仕事をこなすことによって、二階堂黎人は「作者名=作中人物」の縛りを、自力で回避しているように思うのだ。蘭子シリーズ以外の仕事でも、これだけの実績をあげていれば、もはや余芸などとは、読者に言わせないぞと、そんな自負さえ感じられる奮闘ぶりである。

 でもやっぱり、作者と同じ「二階堂黎人」という名を持つ人物が語り手役を務める以上、蘭子シリーズというのは、氏の作品群において、特別な存在ではあると思うのだ。「今では非常に失敗したなあと(笑)」というのは、何も画数が多いからだけではないはず。以下のような点について考えた場合に、それはやはり大きな重みをもって、作者にのしかかってくる問題となっているはずなのだ。

 一般にミステリのシリーズ物は、だらだらと続いて、結局は作者の断筆(あるいは死)とともに終わる、みたいなケースが多いように思う。プツンと糸が切れたような終わり方。

 そうではなく、作者が存命中にちゃんとシリーズを完結させたものと言えば、最近の例では森博嗣のS&Mシリーズがあるが、そんなに多くはないはず。しかし蘭子シリーズの長編は、全十作で完結する予定であり、すでに完結編の構想も九割方まとまっているという。だから二階堂が蘭子シリーズを完結させたら、それだけでひとつの話題を提供することになるとは思うのだが、話はそれだけではない。「作者名=作中人物」という特殊性がある以上、シリーズが完結した後で、作者・二階堂黎人の存在はどうなってしまうのか、という問題が、そこには発生するのである。

 そのあたりの事情に関して、前出のインタビューの中で、次のようなやりとりが、質問者と二階堂との間でなされている。

 質問者「蘭子シリーズは十部作になる予定だそうですが、それが完結した後のご予定は?」

 二階堂「考えてません(笑)」

 このやりとり、「作者名=作中人物」という蘭子シリーズの特性を考慮した場合には、なかなかに感慨深いものがあるわけで。

 やはりクイーンの呪縛は強烈なのである。

 さて、最後にオマケとして、これは本稿の主旨からは少し外れるのだが、「二階堂黎人」というペンネームに隠された秘密について、僕なりの推理を以下で展開してみたい。

 ペンネームの秘密とは、光文社文庫の『本格推理1』に「赤死荘の殺人」が採られた際に、二階堂が「作者のことば」として寄せた、以下の文に端を発している。

「筆名の中には、歴代の推理作家もしくは名探偵の名前のいずれかが隠れています(後略)」

 そして『ニューウエイヴ・ミステリ読本』におけるインタビュー中では、次のような中間報告がなされている。

「(前略)ペンネームに歴代の探偵か作家の名前が隠されているというクイズは、この間正解者が出ました。マンガ家の河内実加さんです。でも彼女には口止めしてあります(笑)」

 そして僕は本稿を書いているうちに、気づいてしまったのだった。

 二階堂黎人。にかいどうれいと。……「れいと」。逆読みすると「といれ」。

 トイレ。……おてあらい。御手洗。……御手洗潔!

 ああっ、そうだったのか! ……って、ホントかなー(笑)。

[]探偵小説研究会特集に書いた原稿1 08:23

新入会員の目から見た「探偵小説研究会」

「探偵小説研究会」に入会しませんか、というお誘いをいただいたのは、2000年の12月のことだった。自分なんかが入ってしまってもいいのだろうか、と内心で思いつつ、「ええぜひお願いします入れてください精進しますから」と、やや慌て口調にて即答したのは、それが自分にとって、この上なく魅力的なお誘いに思えたからである。

 だって有名人が大勢いるんだよ。まずはミステリ作家。笠井潔に、法月綸太郎に、小森健太朗がいる。評論家では有名どころで、千街晶之、鷹城宏、佳多山大地がいる。おっと、東京創元社の社長・戸川安宣も、会員なのか(と、とりあえずそのときの気持ちを正直に書きました。だから敬称略だし、名前が挙がってない人はホントにスミマセン。ちなみに巽昌章さんは当時、僕の中では、SF評論家の巽孝之さんと、区別がついてなかったです)。とまあ、そんなミーハー気分で「入会させてください」と即答してしまったのであるが、実は同時に、かなり腰が引けてもいた。逃げ腰というやつである。

 だって有名人が大勢いるんだよ──と前の段落と同じことを書いてもしょうがないか。でもわかるでしょ? いわゆるアンビバレンツな思い、というやつ。自分にとっては身分不相応と思われる方面からのお誘いに、一方で狂喜乱舞しつつも、もう一方では、自分を卑下しては溜息が出ちゃう、だって女の子なんだもん、みたいな感じで。

 ともあれ「入会させてください」と答えたからには、逃げ腰になっていてもしょうがない。オレだって、やるときはやるのだ。ここはひとつ、ガツンと一発喰らわせてやろうぜ。

 そんな空元気を吹かしつつ、乗り込んで行ったのは、月に一度のペースで開催されている、例会と呼ばれている会合の場であった。初参加は年が明けて、2001年の1月のこと。

 さて、初めてお会いする研究会の先輩方は、みんな教養が豊かで、頭が良さそうに見えた。見えたっていうか、実際にも頭の良い人たちばかりなんですが。

 そうなのだ。よくよく考えてみれば、評論なんてことに手を染めようかという人間は、たいがいが文系の出身者なのである。僕は22番目の入会者なので、会員番号があれば22番(白石麻子と同じ!)を頂戴していたはずなのだが、残念ながら会員番号制は敷かれてなくて──いやそれはどうでも良いのだが。えーと、要するに、会員の総勢が22人いる中で、気がついてみれば僕以外の21人はみんな、文系の学問を修めた人たちばかりなのである。だからそこで交わされるやり取りの、アカデミックなことといったら。唯一の理系出身者である僕には、これがもうチンプンカンプンで。ベンヤミンって誰? ディスクールって何? ガツンと一発行くつもりが、逆にギャフンと言わされてしまったのであった。

 さて、そんな言葉も飛び交ったりする、アカデミックな雰囲気の例会が終わった後には、そのままみんなで飲みに行くのが常だという。おっと。お酒ならばこっちも大好物。しかもあんな有名人やこんな有名人と一緒に飲めるのだ。わーい、とそこでミーハー気分が復活。ひとたびお酒が入ってしまえば、もうこっちのもの。アカデミズムもクソもない。というか、僕からすれば、アカデミズムこそがクソなのである。王様は裸なのである。そんな持論を、いつか酔った勢いでぶちまけたいと思っているのだが、今までのところはまだ論陣を張れずにいる。飲みが足りないらしい。

 というか、僕にとっては仮想敵であるはずの文系アカデミズムの雰囲気が、ぜんぜん持続しないのだ。敵が勝手に自壊している。なぜそこで「カードキャプターさくら」の話が出る。夏コミの話が出る。猪木の話が出る。人妻の話が出る。何なんだこの人たちは。

 でもそんな雰囲気は、ぜんぜん嫌いではないのだった。他分野のマニアックな話にはついていけないが、ミステリの話ならば僕もなんとか。そうして気がつけば、僕もいつの間にか、その場の雰囲気に馴染んでしまっているのだった。

 ところで、ここを読んでいる人の多くがまず疑問に思うのは、いったい「探偵小説研究会」とはどんな集まりなのか、ということだと思うのだが、実は、入会させていただいて半年が経つというのに、それは僕にもイマイチわかってなかったりする。要は一部のミステリ評論家の集まりである。その集まりには、勉強会や相互の情報交換を通じて、それぞれの仕事の質を向上させようという主旨がある。だいたいそんな感じには理解している。ただ、ではなぜ一部の集まりなのか、ミステリ評論家の全体集合ではない、ならばその部分集合の境界条件は何なのか、というあたりが、僕にはまだよく理解できていないのである。

 たぶん、本格ミステリというものに対するスタンスが、境界条件のひとつになっているのだとは思うのだけれども。会の名称に「ミステリ」でも「推理小説」でもなく、「探偵小説」という(現代においては旧弊というイメージを与えかねない)語をあえて冠しているのも、そうした理念を明示するためだと理解すれば、いちおうの筋は通る。

 ともかく、実際に入会してみて、僕がどんなふうに会と関わっているか、それを書いてみることにしよう。

 会員としての活動は、ひとつはインターネットを通じての、情報のやり取りである。これは随時行われている。もうひとつは(先にも書いたように)月に一度の割合で開催されている、例会というのがある。会員同士が実際に顔をつき合わせて、ミステリ評論をテキストとした読書会のようなことを行ったり、あるいは研究会名義での活動に関する作業状況の報告などが、その場で処理されている。遠地の方はなかなか例会に参加できない模様で、だから僕もまだお会いしたことのない方とかもいるのだが、そんなふうに月に一度は集まって、いちおう真面目に「研究会」っぽい活動は、しているのである。

 あと、会員に課せられた義務としては、この「e-NOVELS」上で、週刊書評の原稿を、持ち回りで書かなければならない、というものもある。ただ会員の中には、原稿を遅らしに遅らしている人もいて、そういうのもアリなのかと、新人としては見習うところ大なのであった。

 いや、それは冗談として、とにかく会の基本は「ミステリ評論家の集まり」なのである。その正門は、東京創元社の主催する「創元推理評論賞」で入賞することである。その賞に応募さえしたこともなく、それどころか、ちゃんとした評論すら書いたことのない僕は、いわば裏口入学のクチなのである。

 最初はミーハー気分で、入れてラッキー、などと浮かれていた僕だったが、よくよく考えてみると、それではまずいのだ。入会のハードルが下がったように見えてしまっているに違いない。あんな奴が入れたんだったら、オレだって入れてくれてもいいんじゃないの、というふうに思われているようで怖い。僕と同じミーハーな気持ちは、ミステリファンならば、きっと抱いているに違いないのである。あの有名人たちと同席できるなんて、お前はなんてラッキーなんだ、などと羨ましがられ、妬まれたりしていたら、どうしよう。カミソリメールが送られて来たらどうしよう。

 そうならないように、僕もだから、評論というものをこれからバリバリと書いて、実績を上げていかなければならないのである。うわあ、プレッシャーだなあ。でもがんばるぞ。

 そう。この会の新人として、僕はそういう部分でこそ、諸先輩方を見習わなければいけないのであった。

[]探偵小説研究会特集に書いた原稿2 08:24

マイ「大二郎」ベスト3

第3位●大石大二郎

 昔の野球選手である。背番号4。近鉄バッファローズで二塁手をしていたが、かなり前に引退した。僕の地元、静岡市の出身なのだった。僕が大学時代に頻繁に利用していた定食屋さんが、大石大二郎のオバサン(伯母なのか叔母なのか不明なのでこう表記する)がやっているという風評の店で、その店のチキンカツカレーが美味しかったことを憶えている。

 話を戻すと、その昔、横溝正史が近鉄ファンだと何かに書かれていたのを読んで、横溝ファンだった僕は、「じゃあ僕も近鉄ファンになろう」と思って努力した、そのときに大石大二郎という選手のことを知ったのだった(しかし結局、近鉄ファンになるのは無理だった)。当時の選手では他に、梨田、有田、マニエルといった選手の名前を憶えている。監督は西本監督。たしか大石大二郎選手は、途中で改名して、何か「大二郎」とは違う名前になったような気がするんだけど、改名後の名前がどんなものだったかは、ぜんぜん憶えていないので、ここでは「大二郎」で押し通すことにする。

 そうだ。「僕と大石大二郎」というお題でなら、もうひとつ書くべき話があって。実は僕の行きつけの飲み屋Lの壁に、大石大二郎選手のサインが書かれているのだ。いつ書かれたものかは知らないけど、今でもあって、「あれは誰のサインだ?」などと、ときおり店の新参客の話題になったりしている。ちなみに、サインを書いた色紙を壁に飾ってあるのではなくて、壁に直にサインが書かれているんだけど、それってそういうもの?

第2位●原田大二郎

 俳優である。横溝正史の『真珠郎』をTVドラマ化したときに、彼が「椎名くん」を演じていたのが印象に残っている。ちなみに「乙骨くん」を演じていたのは中山仁。その「乙骨くん」をドラマでは「おつこつくん」と発音していた、あれはあれで正しかったのだろうか? 原作では出てこないはずの金田一耕助がドラマに出てきてしまったのも、あれはあれでアリなのか? 茶木みやこが歌っていたあのドラマの主題歌は、カラオケには入らないのだろうか?

 原田大二郎に話を戻すと、大学時代に僕と同級だったAさんというのが、この原田大二郎に顔が似ていて、そういう意味でも印象に残っている俳優さんである。

第1位●諸星大二郎

 マンガ家である。この人の創造性は凄いと思う。表現手段(つまり絵)は、決して巧いとは思わないのだが、その独自の発想を表現するには、あれはあれで合っているのだと思う。学生時代にこの人の『暗黒神話』『孔子暗黒伝』『妖怪ハンター』といった傑作群を読んで、自分の中に何かが決定的に刷り込まれてしまった。

 作品をいくら読んでも、何を考えてああなってしまったのかがトレースできない、その発想の根幹部分と物語展開の独自性がとってもグッドだと思う。

 僕が「この人は天才だ」と秘かに思っている五人のうちのひとり。あとの四人はナイショ。

 ここで言い訳を少し。

 特定の分野でベストを揃えられるような、体系的な知識を持った分野というのは、僕の場合にはミステリ以外に特に思い当たるものがなかったので、今回はあっさりと降参。

 といって何も書かないわけにもいかないので、ここはちょっとひねって、《マイ「大二郎」ベスト3》というお題で書いてみることにした。ここに注記するまでもなく、「大二郎」のベストを並べてみることには何の意味もない。そもそもベストっていうか、この3人以外に「大二郎」って名前の人を知らないし(……あ、堤大二郎がいたか!)。

 しかし今回の特集の主旨からすれば、要はこの短文が自己紹介としての機能を果たしていれば良いのである。で、とりあえずこんなふうに書いてみたら、いちおう自分の趣味嗜好というか、あるいは性格というか、いや、もっと大袈裟に言えば、自分の今までの半生が、ここに凝縮された形で現れていると、そんなふうに思えたのだった。

 だからこれはこれで良いのである。

 まあ要するに、市川尚吾というのは、こんな人間なのである。

[]京極夏彦特集に書いた原稿 08:24

総合知ミステリの系譜

1.総合知とは

 学問というのは、僕らが学校で学ぶときには、国語とか数学とか物理とか化学とか倫社とか歴史とか、ともかくいろいろな「学科」という単位に分かれており、各学科ごとに専門の教師というのがいて、僕らはそれぞれの専門の教師から、各学科ごとに閉じた形での「学問」というものを教わっている。

 しかし知というものは本来的に、渾然一体となったものであるはずだ。「学科」というのは教育の便宜上から、「学問」を分割した単位にしか過ぎない。したがって、真の「知」というものを掌中に収めるためには、僕らは個々の「学科」を学んだ後、それらを「学際」的に結びつけ、本来の渾然一体とした知の形に戻した上で、それを理解し直す必要がある。

 この世界の、ありとあらゆるレベルの謎を全て解き尽くした状態。この世界における全ての原理が露呈してしまった状態。それをここでは「総合知」と呼ぶ。それは真の知の姿であり、神の視座と言っても良い。この世界の全てを知り尽くしている者は、神と呼ばれる存在だけである。人類にとって、この世界にはまだまだわからないこと(謎)がたくさんあるし、また神がそれを一身で把握しているのに対し、人類は全員で「総合知」のフロントに取り組んでいる。

 そう。人類の知的探求の旅は、現在、分業体勢に入っているのだ。大学に進学する際に、学生は自分の専攻する学科を選択させられる。その学生はやがて一人の研究者となって、ある学科のある領域をコツコツと研究することとなる。分割された学問のそれぞれのフロントで、彼らは自分の専門領域における「未知」を虱潰しに潰していこうとしている。

 しかしそれは一種の下働きのようなものではないか。彼は知への希求において、一個の歯車と化してしまっている。その人類への貢献は間違いのないところだが、しかし彼はそれで満足してしまって良いのだろうか。彼個人には、個人としての「総合知」への希求は無いのだろうか。

 各学科における研究者たちが歯車であるとしたならば、その歯車を組み合わせて出来上がるはずの全体としての機構を、ではいったい誰が掌握するのか。人類の到達を、そのまま誰か一個人の到達にまで高められる、そんな個人はいないのか。

 もちろんいる。個人の知的探求の道において、「狭く深く」ではなく「広く浅く」を指向性として持つ人。特定の分野の専門家になるのではなく、学問の領域全体をカバーして、自分一人で「総合知」への戦いを挑んでいる──そういう人たちも、この世の中にはちゃんといるのだ。

 さて、そんな「総合知」への指向性を持ち、それをある程度までは修めた、というような人間がいた場合、では彼に、現世では、どんな職業が用意されているか、というようなことをここで考えてみる。彼はどんな形で、自身の修めた「総合知」を、人間界において役立て得るのか。

 思想家になる、という道が、まずひとつ思い浮かぶ。現代思想史に名を残すか、あるいは新興宗教の教祖となって大勢の凡夫を救う道を選ぶか。何にしろ、まずはそういったあたりに、道が開かれているように思われる。ひとつはそれで良しとしよう。しかしまだ他に何か無いのか。そんなふうに考えてみると、彼に与えられた選択肢は、意外と少ないように思える。

 そして他に考えられるものとして、ここで浮かび上がってくるのが、創作者になる、という道である。ひとつの世界を作り上げるという形で、彼の修得した「総合知」を現世へフィードバックすること。ひとつの世界を創造する職業──それは具体的には、たとえば映画監督という職業なのかもしれない。しかし映画の製作というのは一種の共同作業であり、一方で彼は神に近接した孤高な存在であるので、共同作業には向かないようにも思える。

 では他に何があるか。あくまでも個人的な作業でありながら、ひとつの世界を創造するような仕事──といったときにひとつ、「小説家」という答が導き出されるだろう。

「総合知」を指向し、それをある程度まで修得した人間が、その実力を充分に発揮できる領域として選択できるのは、「現代思想家」になるか、でなければ「小説家」になるか。たぶんそれぐらいしかないのだ。

 そして僕が考えるに、京極夏彦こそは、そういった「総合知」を指向し、それをある程度まで達成した人間なのであって、そしてだからこそ、彼は成るべくして小説家に成ったのである。

2.いわゆる「4大ミステリ」の特異性

 国内ミステリ史を振り返ったとき、夢野久作『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、中井英夫『虚無への供物』、竹本健治『匣の中の失楽』の4作は、特異な存在である、という点において、ミステリファンの間では既に共通理解が得られているように思う。この4作を総称して「4大ミステリ」という、その呼称も、様々な場面で使われている(人によっては、竹本健治の『匣の中の失楽』を同列とは見なさず、それを除外した形で「3大ミステリ」という括りを採用している人もいるだろう。しかし僕は「4大ミステリ」の方を支持する。要は「括り」の境界条件が問題となっているわけで、僕が採用している「括り」は、以下の文脈において述べられることになる)。

 オールタイムのベストを選ぶような場合に、この4作は特別だから、と言って、別格扱いにする人もいるだろう。特別というのは、他の作品と同じモノサシでは測れない、という意味にも取れる。

 では「4大ミステリ」は、他のミステリとは、いったいどこが違うのか。どういった特異性があって「4大ミステリ」は別格扱いされているのか。

 僕はそれを「総合知への希求」だと思っている。

 ミステリというのは、作中に謎が提示され、それが探偵の知恵によって解決されるまでの物語であると言えよう。謎に対する知の勝利の物語。しかし通常の場合、作中の謎は、作者によって用意されたものでしかない。読者にとっては、その謎は一時的に謎として存在し得たかもしれない。しかしそれを案出した作者にとっては、謎は一度も謎ではなかったのだ。

 自分にとっての謎とは何か。作者は瞑目する。世界は謎に満ちている。これだ。

 かくして作者は、自作のミステリの中に、自分が世界の謎といかに格闘してきたかということを(自分にとっての「総合知」希求の経過と結果とを)記すこととなる。そうした意図のもとに書かれたのが「4大ミステリ」であり、だからこそそれは、迷路のように複雑な構造を持ち、真相が語られても読者がそれを容易に理解することができない難解性を持ち、その著者の畢生の大作となっている。

 たとえば夢野久作が『ドグラ・マグラ』で展開した悪夢を見よ。人が世界を認識するということは、その人が世界を認識したところの自分を認識することでもある。その自己が正気であるのか狂気であるのか、どうやって判断したら良いのか。総合知に至る迷路を、彼は彷徨っている。狂人の解法治療、胎児の夢、その作品自体が作中に登場すること、チャカポコチャカポコ……それらは全て、総合知(=脳髄)の迷路を彷徨う間に作者が得た、アイデアと悪夢の陳列である。

 たとえば小栗虫太郎『黒死館殺人事件』を、どのページでも構わないので、開いて見よ。そこには夥しい知識の羅列が見られるだろう。特に図書室のシーンにおいては、歴史書、百科事典、医学書、宗教書、心理学、犯罪学、音理学書などの夥しい書名が羅列される。そうした羅列は、小栗における「総合知」への指向の、明確な表れであろう。

 たとえば中井英夫の『虚無への供物』を見よ。植物と鉱物と人間が色彩において交錯し、コンガラ童子と不動明王と函数方程式が密室トリックの解明において並置させられる。互いにクロスオーバーする知の集積が最終的に明らかにするのは、東京都の地理に関する謎であり、現実に起こった事件の解き方(祓い方?)である。作中の謎を解く行為が、この世界の謎を解くことに、すり替えられている。

 あるいは竹本健治の『匣の中の失楽』を見るが良い。そこでは科学と魔術が同じ目的を持っていたことが証される。物理学はこの世界を数式に還元するものとしてあり、それはカバラ数秘術とその指向において同列と見做されている。人が世界を視認する際のインターフェースとなる眼球の構造に対するこだわり。数々の思考実験。物理学と心理学の学際的研究。そして最終的な回答であるラプラスの魔は、「総合知」のひとつの形である。

 他の人はいざ知らず、少なくとも僕の場合には、そういった「総合知」への指向性が見られる、という特徴によって、「4大ミステリ」を別格扱いしているところがある。

 もちろん、上記以外にも、作者が蘊蓄を傾けたシーンを持つミステリはあるだろう。しかし「4大ミステリ」においては、それらは単なる装飾ではない。蘊蓄でもない。それらを語るのこそが目的なのだ。それらが語られるのが必然となるように、作中の事件は起きているのだ。

 そういった作品を、僕はここで「総合知ミステリ」と呼ぶことにする。

3.京極堂シリーズという後継

 京極夏彦の作品、特に彼のデビュー作『姑獲鳥の夏』に始まる一連の京極堂シリーズを、同時期に書かれた一般のミステリとは別格扱いにしているミステリファンは多いだろう。

 彼らにとって、では京極堂シリーズというのは、何が、どういう点が別格なのだろう──と考えたのが、僕がこの文章を書くきっかけとなっている。

 先に僕の出した結論を書いてしまえば、多くのミステリファンにとって「4大ミステリ」が特別であるのと同じ意味で、京極堂シリーズは彼らにとって特別扱いされるべき作品なのだ。

 つまり京極堂シリーズもまた、「4大ミステリ」と同じく、「総合知ミステリ」なのである。その作中では夥しい「知」が、学科の障壁を取り外した形で披露される。民俗学と社会学と心理学と科学と宗教が渾然一体化し、作中の謎を解く論理に姿を変えている。知のクロスオーバーがそこにはある。探偵は自身の修めた「総合知」でもって、作中の謎を解いているのである。

 もし京極夏彦が、現在のところ6作まで発表されている京極堂シリーズを、どれか1冊しか書かなかったとしたら、どうだろう。僕らは従来の「4大ミステリ」にそれを加えて、「5大ミステリ」と呼んでいたかもしれない。

 しかし京極堂シリーズは既に6冊も書かれている。「総合知ミステリ」には、一作家一作品という条件が付帯しているはずではなかったか。その作家が希求した全ての「総合知」の結晶であるからこそ、一人一作が限度であり、同時に畢生の大作となるべき作品。

 その条件は満たしていないようにも思われるが、しかし京極堂シリーズは、どの一冊をとっても、質的にも量的にも、通常のミステリよりは「4大ミステリ」に近いものを持っているように思えるのである。

 そしてそれは本人も自覚していたものと思われる。

 京極夏彦は、その処女作『姑獲鳥の夏』を講談社ノベルスの版元に送ったことがきっかけで、作家としてデビューすることとなった。その経緯はつとに知られているが、なぜ原稿の送り先に講談社ノベルスの版元を選んだのか、ということになると、知らない人間もいるだろうから、ここで紹介すると、彼は『匣の中の失楽』の奥付を見て、それを決めたのである。つまり『姑獲鳥の夏』という自作が、『匣の中の失楽』と、どこかで同じ指向性を持っている、という自己認識が、彼にはあったのだ。

 ともあれ、京極堂シリーズこそは、今日において「総合知ミステリ」の系譜に名を連ねる作品群であることは間違いない。

9.おわりに

 この文章は、京極夏彦について論じることが本旨であったため、「総合知ミステリ」については、いわゆる「4大ミステリ」と、京極堂シリーズ6作を、その候補として挙げるに留めたが、実はまだまだ他にもその候補と成りうる作品はあるのではないかと、僕は思っている。

 とりあえず今の段階で、僕の中にある他の候補作は、笠井潔『サマー・アポカリプス』『哲学者の密室』、山口雅也『生ける屍の死』、麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』、二階堂黎人『聖アウスラ修道院の惨劇』『人狼城の恐怖』、山田正紀『妖鳥』といったあたりか。

「4大ミステリ」がいつまでも「4大」であっていいのか、という思いは以前から僕の中にあって、それはつまり、昭和の終わりから平成にかけて、新本格ムーブメントがあれだけ隆盛を極めた中で、それらに匹敵する作品が書かれていないはずがないということでもあるのだが、いつかはそうした論旨でもって、「総合知ミステリ」を本格的に論じてみたいものである。

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