市川尚吾の蔵出し

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2015-05-30

[]CRITICA3号に書いた「本格ミステリの軒下で」の抜粋 06:06

本格ミステリの軒下で 市川尚吾

 はじめに

「軒を貸して母屋を取られる」という諺がある。

 綾辻行人の『十角館の殺人』に端を発し、現在まで二十年以上も続いている国内本格ミステリの隆盛の波の中にあって、私は読者として、また作者(乾くるみ)として、あるいは評論家として、それぞれの立場から当該ジャンルと深く関わってきたが、その経験の中で、本格ミステリの輪郭線は不断にゆらいでいるということを常々感じてきた。そのゆらぎについて考えたときに、冒頭の諺をふと思い浮かべたのである。

 これぞ本格、というような作品がある一方で、これは本格なのだろうか、と悩まされる境界例のような作品も、ジャンル内では数多く書かれ、蓄積されてきている。後者を含めるか含めないかで各人の思い描くジャンルの輪郭線は変わってくるし、それが当該ジャンルについて語るときの語りにくさの要因にもなっているだろう。

 そして境界例だったはずの様々な作品が無批判にジャンルの軒下に取り込まれた結果、それらの作品のほうが旧来の本格作品よりも注目を浴びることになり、母屋を乗っ取られたような形になっている【―】というのが、現在の本格ミステリの姿なのではないかと思うことがあるのだ。

「本格ミステリというジャンルの輪郭は常に流動しているし、そうあるべきである」といった発言は、その姿を容認したものと言えるだろうし、逆に「本格ミステリとは旧来よりこういうものである」といった硬直化した発言は、現在のジャンルの姿を批判的にとらえたものと考えることができる(東野圭吾の『容疑者Xの献身』を巡る一連の論争も、そうした立場の違いに起因した部分がけっこう大きかったはずだ)。

 ともあれジャンル内でそうした「母屋を取られる」式の重心(注目度)のシフト現象が起きているということだけは、各人の立場の違いを越え、ジャンル読者の間で共通認識として(観察された事実として)認められるべきだと、私は思っている。

 本稿の目的は第一に、そうしたジャンル内での重心のシフト現象を、観察された事実としてなるべく客観的にまとめることにある。それでも主観が混じる部分があるだろう。どうしても滅しきれないその主観部分にこそ、私自身の本格ミステリに対する立場が表れているはずだ。そういった形で自分の「本格ミステリ観」を再認識することが、本稿執筆の第二の目的である。

(略)

4.境界線上の作品

 本格ミステリの軒下で今まで何が起きてきたのか。そして現状がどうなっているのか。

 ジャンル内の重心のシフト現象を経年的に観察した結果、重要な役割を果たしたと思われる作品のいくつかを、この章では具体的に取り上げて、各作品がそれぞれの時代において「本格」のジャンル意識にどのような影響を与えてきたのかを検証してみたい。

(略)

4-7.『コズミック』『少年検閲官』

 京極夏彦が『姑獲鳥の夏』という完成度の高い原稿を持ち込んだことから、講談社ノベルス編集部で持ち込み原稿を積極的に募ろうという企画が立ち上り、そこに森博嗣が応募して、デビュー時に何か冠が欲しいということで「メフィスト賞」が創設される。『すべてがFになる』は第一回メフィスト賞受賞作であり、『姑獲鳥の夏』は後に「第〇回メフィスト賞受賞作」と形容されるようになる。

 京極、森に続く「第二回メフィスト賞」は、清涼院流水の『コズミック』が受賞した。刊行は九六年九月。

『コズミック』は刊行当時、本格ミステリファンからはブーイングの嵐で迎えられた。そのことでジャンルの歴史に名を残したと言える作品である。「本格の体をなしているかどうか」が問題になる作品は他にもあったが、『コズミック』が投げかけたのはそのレベルの問題ではない。言ってみれば「小説の体をなしているかどうか」が問題になったのである。そんな小説が(新本格の牙城として機能していた)講談社ノベルスから出版されたことが、本格ミステリファンの神経を逆撫でしたのである。

 個人的な記憶を頼りに、当時の読者のブーイングを再現してみよう。

 人物設定が極端で記号的すぎる。薄っぺらい人物が無駄に多く出てくる。やたらと大きな数字を使いたがる(小説は質こそが問題なのに。数量を競ったって意味がない)。とにかく無駄が多い。冗長であり中身がスカスカ(同じことの繰り返しで枚数を稼いでいる。削ろうと思えばもっともっと、もーっと削れる)。リアリティのなさが小説の限界を超えている……。

 人物設定の薄っぺらさやリアリティのなさは、マンガの世界と近しい。一方でライトノベルは「小説形式で書かれたマンガ」と言われることがある。つまり『コズミック』はライトノベルの文法で書かれていたのだ。ライトノベルのレーベルから出ていれば、人物設定の薄っぺらさやリアリティのなさも、特に問題とはされなかったかもしれない(冗長さという問題は残るにしても)。一般文芸(ここでは「ラノベ以外」の意味)のレーベルから出たからこそ、あれだけのブーイングが浴びせられたのである。

 清涼院流水に対して、本格ファンは「出ていけ」という言葉を浴びせたが、それは「本格ミステリ」から「出ていけ」という意味ではなく、「一般文芸」から「出ていけ」という意味だったのだ。たまたま「本格ミステリ」として出版されたから【―】本格ミステリファンの前に差し出されたから、彼らがその役割を果たしただけであって、問題は「本格ミステリ」の部分にあったのではない。

『コズミック』はレーベルを間違えて出版された作品だったのである。

 しかし一度「新本格」の枠内でそういうものが出版され、読まれた以上は、思わぬところで「本格の丘」に影響を及ぼす可能性がある。

 出版に値しないものが出版されてしまったものの例として、山田悠介の小説を挙げることができる。まっとうな小説読みは「ネタ」として(嘲笑うために)消費していたのだが、しかし一度出版されてしまった以上は、何が起こっても不思議はないわけで【―】本気でそれを「面白い」と思う(普段小説を読まない)読者層がおり、彼らの間で「面白い」という評判が口コミで広まって、ベストセラーにもなり、果ては映画化までされてしまったのである。

 同様に、一度「講談社ノベルス」というレーベルで『コズミック』を出版してしまった以上は、何が起こっても不思議はなく【―】やがては「講談社ノベルスのライトノベル化」という事態を招き、「本格ミステリ」の軒下に、舞城王太郎や佐藤友哉や西尾維新らを招き寄せてしまう結果にも繋がったのである。

「本格の丘」の作品群はそれまで、作中のリアリティに関して、貫井徳郎のような「社会写実」レベル(読者の日常レベルの現実を写実的に描いたレベル)や、綾辻行人のような「美意識優先」レベル(本格ミステリの美学に即した舞台や人物が出てくるが、それなりの作中リアリティは保持しているレベル)、折原一の黒星警部シリーズのような「ユーモア小説」レベル(人物はユーモラスに戯画化されているが、舞台に関しては「社会写実」や「美意識優先」のレベルに留まっている)の三種類を抱えていたが、『コズミック』以降はそこに新たに「荒唐無稽」レベル(マンガ的なカッコよさのために極端に戯画化された人物と、やはりカッコよさを優先させて社会的な整合性を無視した世界設定)という階層を抱え込むこととなった。

 ただし「異世界設定」イコール「荒唐無稽」ではないことは注記しておきたい。たとえドラゴンが生息するような「異世界」を舞台にしていても、その「異世界」の中で社会的整合性が取れていさえすれば、それは「美意識優先」レベルになる。

 笠井潔は「荒唐無稽」レベルの作品に、二一世紀的現実を直視できない若者たちの逃避の精神を見て、そこに「本格ミステリの精神性」の二一世紀的な可能性を幻視しているが、今のところ「荒唐無稽」レベルのリアリティに立脚した「本格ミステリ」の傑作は、書かれていないように私には見えるし、将来性についても期待できないように思う。

 極端に戯画化された人物が犯人では、殺人動機も薄っぺらくて読者の共感(納得)を得られないだろうし、社会的な整合性を無視した世界設定は、それ自体がツッコミの対象になりうる。

 おそらく「荒唐無稽」レベルのリアリティを下敷きにした作品が「本格ミステリ」の傑作になることはないだろう。そこから生まれてくる最良のものでも、せいぜいが「ライトノベルの傑作で、かつ、本格ミステリにもなっている」作品でしかないのではないかと思うのだが(と書きながら同時に、私のこの予想が覆すような作品が書かれることを期待していることは、ここに注記しておきたい)。

(後略)

[]清涼院流水バッシングに関連して 06:26

1997年12月7日の日記から抜粋。知人関係の固有名詞は念の為「**」で置き換えている。

【12月7日(日)】

 さて、いよいよ関ミス連の当日。開始が早いので、みんな朝7時に起床。こっちはみんなよりも余計に寝たはずなのに、なぜかまだ眠い。髪はボサボサ。でも7時半には出発だ。電車を乗り継いで、**さんはいったん部屋に戻ってから来るので遅くなると言い残して別れ、残り3人は9時過ぎには会場の京都祇園ホテルに入る。**さんにご挨拶。どーも。

 そして関ミス連の開演。ミステリ好きの集まりというのはこっち、参加させていただくのは初めて。趣味を同じくする者がいま、これだけいるんだという、それだけで、ありがたい気持ちになる。普段は劇とかクイズとかがあるらしいのだが、今回は会場の関係で時間に制限があるので、ゲストへの質問とサイン会、そしてオークションというシンプルな構成、なのだそうだ。ゲストは清涼院流水さん。をを、作家の実物を見るのは初めて。質疑応答が始まってじきに判明したのが、清涼院さんというのは面白い人なんだな、ということ。受け答えに機知がある。やっぱり関西系ということか。質問会が終わったところで、進行役をつとめていた**嬢ともご挨拶。どーも。カメラ持って来りゃ良かった。

日記では触れられていないけど、このときの質疑応答で、「清涼院先生はどんな辞書を使っているのですか」という質問があった。普通に考えれば「作家の使っている辞書に興味があって聞いてみた」だけのように思えるが、そのときには「どんな辞書を使っていればあんな文章になるんだ」的な批判的な意識が、質問者にはあったように、僕には感じられたのである(その批判的な姿勢を質問者が隠そうとしていないことも感じられた)。清涼院さんは「執筆時には友人の下宿を転々としていて、それぞれの家にあった辞書を使った」というような回答をしていたと思う。悪意のある質問を、飄々と受け流しているように僕には感じられた(念のために明記しておきますが、その質問をした人は僕じゃないです)。

ネット上の言説とか、今となっては消えてしまったものも多い中で、それこそその場にいた人にしか認識されなかったであろうそういった空気のようなものを、記録しておくことにも意味があるかなと考えて、関ミス連に参加したときに感じたことをここに書いてみたのはいいけれど、この文章も将来消えてしまっている可能性がないわけではないのだよなあ。

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