市川尚吾の蔵出し

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2016-05-18

[]女性を蔑視してるのは誰? 10:39

秋元康が作詞したHKT48の曲「アインシュタインよりディアナ・アグロン」がなぜか「女性蔑視」だということでバッシングを受けているらしい。

アホじゃないの?

バッシングしている人たちは、秋元康が「女の子はこうあるべき」と思って歌詞を書いたと解釈しているのだろうか?

小説にしろ歌詞にしろ、素人が書くと、読み手や聞き手に共感してもらったり感動してもらったりすることが目的になって、自分の経験とか理想像とかを書いてしまいがちだ(といっても、そういうメッセージ性の強い創作物はもちろん、プロでも書いていいし、そういう内容だから素人レベルといって貶すつもりでこの文章を書いているわけではない)。

プロは創作時の考え方がそもそも異なる。「主人公が良い子の話」は世の中に氾濫しているので、それ以外の設定でもっと豊かな物語が作れるのではないかということを考えて、読者が共感できないような嫌な性格の主人公を用意して、その部分では減点されても(共感したくて読む読者は多いからね)、でも「そういう設定だったからこそ成り立つ面白い物語」を時には模索したりする。

秋元康が多くの女性アイドルグループをプロデュースしてきたことや、48グループ関連曲だけでも千曲以上を作詞してきたということを知っていれば、そこで描かれている女性像が多様性に富んでいることは想像できるだろうし、もし多様性に富んでいなければ、それは「女性はこうでなければならない」というふうに、決められた型に世の中の女性を押し込もうとしているとして、逆にバッシングを受けるべき事態となることも、容易に想像できるだろうに。

そう。要するに、多様な女性像を描くことの一環として、秋元康は「アインシュタインよりディアナ・アグロン」で「軽薄な考え方で人生を生きている女性」の姿を描いているのだ。

バッシングをしている人のまわりには、そういう女性はいないのかもしれないが、秋元康が歌詞に書いたような考え方をする女性は、世の中に存在していてはいけないのだろうか? 存在は許されているとしても、彼女たちの考えを代弁する歌詞を創作してはいけないのだろうか? 彼女たちはマイノリティとして、言論を封殺されなければならないのだろうか?

秋元康が「アインシュタインよりディアナ・アグロン」を書いたときに、多くの若い女性からの共感を求めて書いたとは思えないし、それは歌詞を見れば明らかだと思うんだけど、いわゆる良識派の人たちは、そのレベルで理解力が欠けているのだろうか? 大多数の人が共感しない場合でも、こういう子っているよね、いていいよねと聞き手が思うことで、一部の、その歌詞に共感するタイプの女性が、救いを見出したり、明日を生きる助けになっていたりする場合もあるということを考えて、この歌詞は書かれていると、個人的には思うのだがどうか。

ディアナ・アグロンという女優(および彼女がドラマ「glee」で演じているクイン)は、カワイイだけじゃなく内面も磨いているところが魅力的なのに、外見だけで中身はバカでいいという歌詞に使われるのは、彼女とドラマに対して侮辱だ、というような批判もされているようだが、秋元康が歌詞にそう書いたから、彼がディアナ・アグロンおよびドラマ「glee」をそう見ている、という解釈はあまりにも短絡的だ。論理的に導き出されるのは、少なくとも彼が書いた歌詞の主人公の軽薄な女の子がそう見ている、というところまでである。この歌の主人公の軽薄な少女には、そんな内面的な魅力も併せ持つディアナ・アグロンも、ただ外見だけがカワイイ子としか見えていない、というだけの話であり、そのキャラの設定には一貫性がある。カワイイだけで世の中を渡っていけると思っている主人公には、ディアナ・アグロンやクインの内面の豊かさが見えずに、外見の可愛さだけしか見えていない、そんなふうに他人を見る目も薄っぺらい主人公を設定して、彼女の目から見た世の中を歌にしているのである。多くの人がその物の見方に共感できないにしても、それがある意味で新鮮だったり、ひいては人間の多様性を感じさせたりする部分に、こういう、マイノリティの内面を描いた歌詞の存在価値はある。

僕からすれば、明らかに「あえて」そうしているのだし、秋元康はわかってやっている。それを理解した上で「どうしてそんな薄っぺらい女性を主人公にして歌詞を書いたのか」という部分で批判を展開するのならまだ議論の余地はあるが、そこに至っていない人たちのバッシングは、低レベルすぎて話にならない。

想像力が欠けているのは、秋元康なのか、秋元康をバッシングしている人たちのほうなのか、一度冷静になって考えてみてほしい。


毎日新聞という公器が、この件をネット記事にしたのだが(紙媒体で記事になっているかどうかは購読していないのでわかりません)、こういう騒動があったという紹介と、バッシングしている側(驚いたことに大学の教授だったりする)の言い分だけを載せていて、それとは逆の意見──「その解釈は浅はかだし、それは結果的に一部の女性の存在を否定するというマイノリティの差別に繋がりさえする」という、ここに書いたような「ごくアタリマエの分析」すら載せていないので、これはバランス感覚に欠いた取り上げ方だと気になって、急いでこの文章を書いて、人から見える場所に置いておこうと思った次第。「言論の自由」を守るべき新聞社が、こんなふうに言論封殺の勢力に味方する(と書いては言いすぎだが、言論封殺側の意見は載せて、反対意見は「回答がなかった」で済ませる)ような記事を書いていいの? 秋元康に質問状を送ったが回答を得られなかったとか書くだけで済ませずに、自分でほんのちょっとでも考えれば、今回のバッシングが「言論の自由」を脅かすものだということはわかるはずだし、新聞社の立場としては記者自身が「自分の考察」としてここに書いたような反対意見を載せて、紙面のバランスを取るべきだったんじゃないの? 新聞社はここまで「役に立たない公器」になり下がってしまったのか(ちなみに「大学教授」についてはいろんな人がいていいと思っています。教わっている生徒にとっては災難だろうが自己責任ということで。生徒たちが教授の指導で考えたという替え歌が紙面で紹介されていたが、この歌の特徴である「軽薄さ」という個性を殺して平均化する方向での歌詞の改変であり、個人的にはファッショ的うすら寒ささえ感じた。個人的にこういう「教育」は子供たちに受けさせたくないものである。毎日新聞はそう考えていないようですけど)。


というわけで、バッシングしている人がこの文章を読んで、多少なりとも自分の意見を割り引いて考えていただけたら幸いです。まあこんなところまで見に来る人はいないか。ほぼどこからもリンクが張られていないし。

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