市川尚吾の蔵出し

2017-06-27

[]「本格ミステリ大賞」を道具にされたくない 10:57

自分の好きなドラマが世間から叩かれていて、視聴率も悪いという状況の中で、援護目的なのか何なのか、同ドラマに対して「本格ミステリ大賞の特別賞が与えられてもいいんじゃないか」的なことを言い出している人たちがいるようだが、ちょっと待ってほしい。

彼らは本格ミステリ大賞について何を知っているというのか。17年の歴史があるが、今までに映像作品を顕彰したことはない。なのに今年、映像作品に(例外的に)特別賞を贈るということになると、少なくとも過去17年の連続ドラマ・単発ドラマ・映画などの映像作品の中で、ダントツの1位と評価される必要があると思うのだが(10周年のときに特別な企画として海外作品を顕彰したことがあったが、10年目で初めての試みだったので、過去10年間に書かれて翻訳された作品を対象としていた。同様に今年は映像作品に特別に賞を贈ることにしたという場合、今年の作品だけでなく、過去17年間の映像作品も対象になるのが筋というもの)、連続ドラマがまだ終わっていない状態で1位だと決めつけることは論理的にできないはずだし(7話以降でガクンと品質が落ちて平均点が下がる可能性はまだある。論理性を重んずるなら、ドラマが完結して最終的な品質が確定するのを見極めてから言い出すべきだった)、「映像作品にも賞を与えてほしい」というだけならともかく、最初から「このドラマに贈るべき」と決め打ちしているのは、過去17年間の映像作品を軽視(というか無視、あるいは侮辱)していることに他ならない。全部ではないにしろ、過去17年間に制作された映像本格ミステリの多くを視聴していて、その中でも今回のドラマはダントツだ、という主張ならまだ筋は通している(過去の作品を軽視してはいない)と言えそうだが、結局、それはあなたの主観であって、本格ミステリ作家クラブ(本格ミステリ大賞の運営母体)がそう感じるべきだ、という価値観の押し付けになっていないか、もっと慎重さが要求されるはずだし(慎重さに欠けるのが問題だし)、過去17年間の映像ミステリ作品をそれほど網羅的に見ていない人が言っているのだとしたら論外だ(ハッシュタグは誰でも使えるので「論外」レベルの人も大量に賛同した形になって、逆にムーブメントの足を引っ張っているように見えてしまうのはどうにかならないものか)。

映像部門を新設して第一回受賞作に選んでほしい、という方向ならば対象は今年に限定されるが、それでも5月の段階で、当該ドラマが1位になると決め打ちしているのは、ミステリに理解のある他の映像作家に対する侮辱(あなたがたが今年の後半にどういう作品を作ろうとも、この作品は越えられないだろう)になっている。いやいや侮辱していない、当該ドラマを越えた作品が下半期に作られたらそれも顕彰しよう、合格点を超えたら何作でも授賞させよう、という言い逃れがまだ可能かもしれないが、そうなると賞の乱発を許すことで「本格ミステリ大賞」の価値が下がるし、年に一作(投票で同点なら二作)と規定された小説部門や評論・研究部門の過去の受賞作や、特別賞の過去の受賞者を(間接的に)貶めることになるだろう。というか映像部門の新設が絵に描いた餅でしかないのだが。

そもそもの話、本格ミステリ作家クラブの処理能力はかなり小さい。現状でも候補作を選ぶ予選委員と本投票に臨む会員の負担はそれなりにあって、「小説部門」と「評論・研究部門」でほぼ手一杯の状況である。それでも過去の功績が飛び抜けていて、この方を顕彰したいと、現役の作家や評論家が思ったからこそ、鮎川哲也、宇山秀雄、戸川安宣、島崎博の四人には特別賞を授賞した。規模が小さく、作家たちの「手作りの賞」という意識があったからこそ、規定外の授賞である「特別賞」を乱発せずに対象をかなり厳選してきたし、結果的に「受賞すること」の価値が高まっている。

そこに外野の(クラブの会員でもなく、クラブの理念や現状などにも通じていない)人間が、勝手に何かを並べたりしないでほしい。鮎川哲也の功績を知っている人が、今回のドラマはそれに並ぶものだと主張しているのならば、耳を傾けないでもないが(本格一筋に生涯を捧げた作家とワンクールのドラマを同列に語れるならば語ってみよ)、特別賞の過去の受賞者についてたいして知識がない人が「某ドラマに本格ミステリ大賞特別賞を」と言っているのだとしたら、しかもそれが「某ドラマを自分は高く評価しているのに世間の評価が低いから、権威による擁護がほしい」というだけの動機でそう言っているのだとしたら、あまりにも自分勝手にすぎやしないだろうか。

自分の好きなドラマに対して「無理解な態度」を取っている視聴者に対抗するために、本格ミステリ大賞の名前を持ち出している人は、とりあえず過去17年間に作られたミステリ系のドラマに対して、自分が同様の「無理解な態度」を取っていることを自覚してほしい。「相棒」や「TRICK」といった連続ドラマに対して(あるいは「名探偵コナン」などのアニメや「キサラギ」「アフタースクール」などの実写映画に対して)「特別賞を」と言わなかったくせに、今回のドラマに対しては「特別賞を」と言っているということは、そこに明確な差があると言っているわけで、あなたがたは(たぶん無自覚なんだろうけど)いろんな作品の関係者(およびファン)に対して喧嘩を売っているんですよ。あなたが大好きなドラマをいま貶している人たちと、同じことをしているんですよ。

「○○した功績が何らかの賞に値する」という論法で他作品に喧嘩を売るのは無謀でしょう。他の映像作品は一切「○○」をしていないという事実があってこそ、そういった差別化が成り立つわけで、じゃあここ17年間の他の映像作品は、新しい層に本格ミステリの魅力をアピールできなかった、新しい見せ方をしてこなかった、探偵役の設定に工夫を凝らさなかった、原作に手を加えることで本格としての価値を増すということをしてこなかった、ロジカルな解決の面白さを誰にも伝えてこなかった、etc……、という個別の証明を伴わなければならない。あらゆる方面に喧嘩を売って、当然「この作品にもそういった功績は認められますよ」という反論が各方面から返ってくることが予想されるのだが、「そんなしょぼい功績は賞に値しない。こっちはもっと功績が大きいんだから」などと言い張って、ミステリファンの中で孤立化してゆく未来しか見えないのだが。

「この作品に(だけ)賞を」というアピールは「この作品以外は賞に値しない」と言っているも同然で、騒動の元になる。そんなことのために「本格ミステリ大賞」の名前を使わないでいただきたい。

ちなみに「某ドラマ」は毎週録画していて、まだ追い付いていないが、とりあえず第三話まで見ている。視聴率がふるわないという指標はあるようだが(といっても「月9にしては」という但し書き付きで、フジテレビの中ではトップレベルの数字を出しているはず)、本格ミステリの映像化として高い満足度が得られる作品になっていると思うし、この内容で批判している人がいるとしたらその人間のほうが間違っていると個人的には思う。むしろ誰よりも強く思っているし、自分に自信があるからこそ「援軍」の必要性はまったく感じない。間違いなく優れている。貶す人間のほうが間違っている。話はそれで完結している。だったらどうして賞を欲しがるのか。

間違いなく優れているとは思うのだが、過去17年でダントツだとまでは思っていない。この作品に賞を与えたら、過去のいろいろな作品(あれとかこれとか)のファンが大挙して、じゃああれにも与えてほしい、これにも与えてほしいとなってキリがなくなると思うので、余計な波風を立てないでほしいと言っているのである(そういう意見が出てこないほど「誰にとっても突出した作品」にはなっていないと個人的に判断している。この判断がもし間違っていたと後になって意見を変えることがあったら各方面に謝罪します)。もし本格ミステリ大賞が映像作品に対して何らかの賞を与えることがあるとしたら、本当に「誰にとっても突出した作品」に限定されるべきであって、たとえば「刑事コロンボ」や「奇術探偵ジョナサン・クリーク」あたりの水準(質と量)を満たした作品に厳選してほしい。

基本的には活字の世界で活動している人たちが集まって作った賞なので、専門外のメディアに授賞する際にはそれだけ慎重に、例外的な扱いにふさわしい作品に厳選すべきだと思うのだ。逆に映像部門に今後力を入れてゆくのならば、映像作品における「本格ミステリのあり方」を熟知した映像作家なり脚本家なりを会員として大幅に増員してから、そういった部門を新設すべきであると(でもその必要はないと個人的には思っている)。

まとめ。

過去17年間のすべての本格ミステリ系映像作品と戦って1位が取れますか?

もそしれで1位を取れたとしても、特別賞の既受賞者四人に共通する「現役の多くの本格ミステリ作家を誕生させ、本格ミステリの今の隆盛を、半生を賭けて招来させた」という功績と同列に並べられますか?

もし同列に並べられたとしても、特別賞の乱発(による価値の暴落)は避けたいので、既受賞者の四人とそのドラマの、合計五回の受賞に並ぶものは今後、数年に一度出るか出ないかのレベルだと、多くの人に認めさせることができますか?


注:以上の文章は約一ヵ月前、5月25日に書いたものである。最終回まで見終えて、傑出したドラマだという意見には賛成するが(僕自身が映像作品に詳しくないので、過去17年間で並ぶものがない傑作かどうかの判断はできない。もしかするとそうなのかもしれないが)、だからといって本格ミステリ作家クラブが顕彰するのは違うという、自分の中での結論は変わっていない。

2017-06-18

[]須藤凛々花問題 12:37

自分の言動に責任を持つこと。そのために人生のさまざまな場面で正しい選択をし続けること。それを実現するにはどうしたらいいか。どういうルールで自分を律したらいいか。社会を律したらいいか。それを考えることが哲学の根源のひとつだと思っている。

もしアイドルが集票イベントの最中に恋愛にうつつを抜かしていたとすれば、それを責任ある行動だと判断することはできないだろう。我欲に忠実だとは言えるが、それだったら動物でもできること。自分の言動に責任を持ちたいと思ったならば、嘘をつきたくないと思ったならば、本当のことを言っても誰にも迷惑をかけないように行動を律するのが本筋である。アイドルグループの一員として活動をしている間は、ファンを裏切る行為を慎むこと。我欲を抑えきれないと判断したならば、アイドルを卒業して、ファンの作り上げた偶像から解放されるという手順を踏んだのちに、やりたいことをすればいい。

といっても「恋愛禁止」はAKB48グループの公式ルールではなく、ファンに「裏切られた」という気持ちを抱かせないための、アイドルの自主規制であり、それをナイガシロにしてきたアイドルは過去にも少なからずいたことは事実である。

今回の騒動のいちばんの問題は、週刊誌によるスクープの被害を受け流すために「結婚発表」という奇策を用意したこと、ではなく、それを48グループにとって大事なイベントである「総選挙開票式」の壇上スピーチで行ったことである。後日別な形で「結婚発表」という奇策を用いたのであれば、グループのファンからここまで総スカンを食らうことはなかっただろう。しかし須藤は大事なイベントの最中にそれを用いて、開票式を台無しにした。その罪は重い。

総選挙の開票式は今年で9回目を迎えた。過去8回と同様、今年も壇上に立ったメンバーがそれぞれ嬉し涙や悔し涙を流した。ファンも涙を流したし、壇上に立てなかった圏外メンバーとそのファンの悔し涙も忘れてはいけない。その涙を吸った大地から、翌年、綺麗な花が咲くのである。

そんな大切な地面に、20位の須藤は生コンクリートを大量にぶち撒けた。19位の峯岸みなみ、18位の松村香織、17位の向井地美音は自分に与えられていた時間が大幅に削られた中で、何とか目の前の生コンを掻き出して、来年のための地面を少しでも露出しようとしていた。選抜メンバー16人のスピーチでも、コンクリートを掻き取ることに多くの時間が取られていた。それでも地面に大量のコンクリートは残り、すぐに固まり、大勢のメンバーやファンが流した涙がその下に消えて見えなくなってしまった。

おそらく来年になれば、コンクリートは風化して、あちこちの罅割れや隙間から力強い芽が吹いて、綺麗な花を咲かせるだろう。でもこの生乾きのコンクリートに覆われた大地の景色は、その荒涼とした風景は、多くのファンの気持ちを冷めさせる恐れがあるし、放っておいてよい問題ではない。

グループの大事なイベントを「個人のしでかした過ちの尻拭い」に使い、荒涼とした風景を現出させた責任は果てしなく大きい。開票式を私物化したと言っても過言ではない。壇上にのぼれなかったメンバーも含めて322人の思いが詰まっていたはずの大事なイベントを、須藤の(スキャンダル逃れのための)「結婚発表の場」に変えてしまったこと。責任感がカケラでもあればそんな(須藤以外の全員にとって)誤った選択はしなかっただろうし、この程度の判断力もない人間が「哲学者を目指す」などと称していたことに憤りすら覚える。

まとめ。

1)スキャンダルの発覚で自分のファンの気持ちを踏みにじったのはまた別にしても、

2)総選挙を私物化し他のメンバーやそのファンの気持ちを台無しにしたのは大問題。

3)責任ある行動を目指すのが哲学者への第一歩だが、まるでなってないのに呆れる。

2017-01-19

[]加藤九段 17:27

プロ棋士(将棋)の加藤一二三九段(かとうひふみ九段)は、うっかりすると「加藤せんにひゃくさんじゅうきゅう段」に見えてしまう。ものすごく強い人かよ(いや、ものすごく強い人なんだけどさ)。

2016-10-16

[]48グループの申し子 22:53

生年月日を8桁の数字「YYYYMMDD」で表記することがよくある。区切りのスラッシュを入れた表記のほうがよく見かけると思うが、そのスラッシュを抜いた形を、たとえばメールアドレスとかツイッターのアカウントとかを作成するときに、普段ローカルに使っている「t-szk」とかだとなかなかユニーク(一意)にならないので、生年月日まで入れれば誰とも被らないだろうと入れるときなどに、8桁の数字が使われたりする。

その8桁の数字を構成する「8つの数字の合計」を考えてみる。たとえば僕の場合、1963年10月30日生まれなので8桁表記は「19631030」であり、合計値は1+9+6+3+1+0+3+0=23になる。

ではその合計値の最大はいくつかというと、これが「48」なのである。しかもその「合計の最大値」を持つのは8桁表記が「19990929」の人、すなわち1999年9月29日にピンポイントで生まれた人だけなのだ。これは約千年後、2999年9月29日までは抜かれない記録である。

いま生きている人の誕生日は100年超(四万日弱)にわたっているが、その中で合計値「48」を持つのはただ一日、1999年9月29日生まれだけ。

だったら、この「特異日」に生まれた女の子が48グループに入り、センターポジションを獲得する、という物語を見てみたくなるじゃないですか(合計値が「46」の子が46グループ[坂道グループ]に入って活躍するという話でも良いのだが、その場合「46」が最大値じゃないのが弱い。今回のこの話は「誕生日の8つの数字の合計」の最大値を僕が考えたときに、たまたま「48」になったので「おっ」と思ったのがすべての始まりだから、特別な数字[最大値]じゃない「46」で考えて該当者がいたとしても、そんなに興奮ははしないだろう。数字を減らせばハードルは下がるし、たとえばチーム8には「8つの数字の合計が8になる」メンバーとして横道侑里[2000年10月23日生まれ]がいる)。

というわけで調べてみたのだが、AKB48だけでなく姉妹グループまで範囲を広げ、さらに現役だけでなくOGにまで範囲を広げても、1999年9月29日生まれのメンバーは在籍していなかった。でも現時点で高校2年生の17歳。まだこれからグループに加入してくる可能性はある(年齢が上がるにつれて可能性は低くなるので、悠長なことは言ってられないのだが)。

日本国内に限定すれば、一日に生まれる赤ちゃんの数は概算で二千人。半分が男子なので女子は千人。そのうちアイドルを目指している子が何人いるかは知らないが、さらにアイドルになれる容姿や性格を持っていること、恋愛中でないこと(過去に致命的なことをSNSで暴露していないこと)等の条件を満たしている子がもしいたとしたら、その子こそ「48グループの申し子」として、運命の子として、ごり押ししてもいいのではないか。

実はこの一週間ほど、AKB48では16期生オーディションというのをやっていて、最終候補に残っている69人のうち希望する者は、SHOWROOMという動画生配信サービスを使って、ファンにアピールするというお試し配信を行っていたのだ。そういう形で各候補生の年齢や生年月日に関する情報が拾える状態にあり、注目していたのだが、高校2年生17歳というのがそもそも少なくて、全員のぶんはわからなかったものの、とりあえず目に入った範囲では「19990929」生まれの子はいなかった。「48グループの申し子」はまだ見つかっていないようだ。

代わりに「2000年10月10日生まれ」の候補生を見つけた。この合計値「4」は現存する人間の最小値である(千年前には合計値が「3」になる人間がいた)。ただし合計値が4になるのは(最大値48の場合とは違って)ピンポイントで一日だけというわけではなく(2000年生まれは必須だが)、該当する誕生日は四つで、「10月10日」の他に「1月1日」「1月10日」「10月1日」がある。最大値を探していたら最小値を見つけた形だが、とりあえずこの子を採っておけば、後に「1999年9月29日生まれ」が見つかったときには、「最大と最小」で対立軸が作れるな、と思ったりもした。しかし残念ながら最小値の子は、本日行われた最終審査で落ちてしまったのであった。

自分が運営側だったらそんな理由でその子を採っていたかもしれないが、まあ仕方がない。というか、実はチーム8の山本瑠香が「2000年10月10日生まれ」で、すでに48グループに「最小値」は在籍していたのだった。

というわけで運営は、山本瑠香のことを「よよよよよよよよよよよよよよろしくね」。

2016-05-18

[]女性を蔑視してるのは誰? 10:39

秋元康が作詞したHKT48の曲「アインシュタインよりディアナ・アグロン」がなぜか「女性蔑視」だということでバッシングを受けているらしい。

アホじゃないの?

バッシングしている人たちは、秋元康が「女の子はこうあるべき」と思って歌詞を書いたと解釈しているのだろうか?

小説にしろ歌詞にしろ、素人が書くと、読み手や聞き手に共感してもらったり感動してもらったりすることが目的になって、自分の経験とか理想像とかを書いてしまいがちだ(といっても、そういうメッセージ性の強い創作物はもちろん、プロでも書いていいし、そういう内容だから素人レベルといって貶すつもりでこの文章を書いているわけではない)。

プロは創作時の考え方がそもそも異なる。「主人公が良い子の話」は世の中に氾濫しているので、それ以外の設定でもっと豊かな物語が作れるのではないかということを考えて、読者が共感できないような嫌な性格の主人公を用意して、その部分では減点されても(共感したくて読む読者は多いからね)、でも「そういう設定だったからこそ成り立つ面白い物語」を時には模索したりする。

秋元康が多くの女性アイドルグループをプロデュースしてきたことや、48グループ関連曲だけでも千曲以上を作詞してきたということを知っていれば、そこで描かれている女性像が多様性に富んでいることは想像できるだろうし、もし多様性に富んでいなければ、それは「女性はこうでなければならない」というふうに、決められた型に世の中の女性を押し込もうとしているとして、逆にバッシングを受けるべき事態となることも、容易に想像できるだろうに。

そう。要するに、多様な女性像を描くことの一環として、秋元康は「アインシュタインよりディアナ・アグロン」で「軽薄な考え方で人生を生きている女性」の姿を描いているのだ。

バッシングをしている人のまわりには、そういう女性はいないのかもしれないが、秋元康が歌詞に書いたような考え方をする女性は、世の中に存在していてはいけないのだろうか? 存在は許されているとしても、彼女たちの考えを代弁する歌詞を創作してはいけないのだろうか? 彼女たちはマイノリティとして、言論を封殺されなければならないのだろうか?

秋元康が「アインシュタインよりディアナ・アグロン」を書いたときに、多くの若い女性からの共感を求めて書いたとは思えないし、それは歌詞を見れば明らかだと思うんだけど、いわゆる良識派の人たちは、そのレベルで理解力が欠けているのだろうか? 大多数の人が共感しない場合でも、こういう子っているよね、いていいよねと聞き手が思うことで、一部の、その歌詞に共感するタイプの女性が、救いを見出したり、明日を生きる助けになっていたりする場合もあるということを考えて、この歌詞は書かれていると、個人的には思うのだがどうか。

ディアナ・アグロンという女優(および彼女がドラマ「glee」で演じているクイン)は、カワイイだけじゃなく内面も磨いているところが魅力的なのに、外見だけで中身はバカでいいという歌詞に使われるのは、彼女とドラマに対して侮辱だ、というような批判もされているようだが、秋元康が歌詞にそう書いたから、彼がディアナ・アグロンおよびドラマ「glee」をそう見ている、という解釈はあまりにも短絡的だ。論理的に導き出されるのは、少なくとも彼が書いた歌詞の主人公の軽薄な女の子がそう見ている、というところまでである。この歌の主人公の軽薄な少女には、そんな内面的な魅力も併せ持つディアナ・アグロンも、ただ外見だけがカワイイ子としか見えていない、というだけの話であり、そのキャラの設定には一貫性がある。カワイイだけで世の中を渡っていけると思っている主人公には、ディアナ・アグロンやクインの内面の豊かさが見えずに、外見の可愛さだけしか見えていない、そんなふうに他人を見る目も薄っぺらい主人公を設定して、彼女の目から見た世の中を歌にしているのである。多くの人がその物の見方に共感できないにしても、それがある意味で新鮮だったり、ひいては人間の多様性を感じさせたりする部分に、こういう、マイノリティの内面を描いた歌詞の存在価値はある。

僕からすれば、明らかに「あえて」そうしているのだし、秋元康はわかってやっている。それを理解した上で「どうしてそんな薄っぺらい女性を主人公にして歌詞を書いたのか」という部分で批判を展開するのならまだ議論の余地はあるが、そこに至っていない人たちのバッシングは、低レベルすぎて話にならない。

想像力が欠けているのは、秋元康なのか、秋元康をバッシングしている人たちのほうなのか、一度冷静になって考えてみてほしい。


毎日新聞という公器が、この件をネット記事にしたのだが(紙媒体で記事になっているかどうかは購読していないのでわかりません)、こういう騒動があったという紹介と、バッシングしている側(驚いたことに大学の教授だったりする)の言い分だけを載せていて、それとは逆の意見──「その解釈は浅はかだし、それは結果的に一部の女性の存在を否定するというマイノリティの差別に繋がりさえする」という、ここに書いたような「ごくアタリマエの分析」すら載せていないので、これはバランス感覚に欠いた取り上げ方だと気になって、急いでこの文章を書いて、人から見える場所に置いておこうと思った次第。「言論の自由」を守るべき新聞社が、こんなふうに言論封殺の勢力に味方する(と書いては言いすぎだが、言論封殺側の意見は載せて、反対意見は「回答がなかった」で済ませる)ような記事を書いていいの? 秋元康に質問状を送ったが回答を得られなかったとか書くだけで済ませずに、自分でほんのちょっとでも考えれば、今回のバッシングが「言論の自由」を脅かすものだということはわかるはずだし、新聞社の立場としては記者自身が「自分の考察」としてここに書いたような反対意見を載せて、紙面のバランスを取るべきだったんじゃないの? 新聞社はここまで「役に立たない公器」になり下がってしまったのか(ちなみに「大学教授」についてはいろんな人がいていいと思っています。教わっている生徒にとっては災難だろうが自己責任ということで。生徒たちが教授の指導で考えたという替え歌が紙面で紹介されていたが、この歌の特徴である「軽薄さ」という個性を殺して平均化する方向での歌詞の改変であり、個人的にはファッショ的うすら寒ささえ感じた。個人的にこういう「教育」は子供たちに受けさせたくないものである。毎日新聞はそう考えていないようですけど)。


というわけで、バッシングしている人がこの文章を読んで、多少なりとも自分の意見を割り引いて考えていただけたら幸いです。まあこんなところまで見に来る人はいないか。ほぼどこからもリンクが張られていないし。